札束の行方——「ショーン・ベイカー 初期傑作選」徹底解説。キャリア黎明期のフィルムから紐解く作家性の核心とは?

text by 冨塚亮平

『ANORA アノーラ』で第97回アカデミー賞®作品賞をはじめ最多5部門を受賞した、アメリカの映画作家ショーン・ベイカー。そのキャリア初期を彩る4本の作品が現在公開中だ。今回、映画批評家であり英米文学研究者でもある冨塚亮平さんに、それぞれの作品の特徴と、それらを通して浮かび上がるショーン・ベイカーの作家性について解説いただいた。(文・冨塚亮平)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価 レビュー】

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初監督作品に見る大器の片鱗

『ショーン・ベイカー 初期傑作選』
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「ショーン・ベイカー 初期傑作選」が7月24日まで恵比寿ガーデンシネマで開催中だ。今後順次全国の劇場に巡回予定の同特集では、ショーン・ベイカー監督がキャリア初期に手がけた長編監督作四本が一挙に上映される。

 いずれも日本では劇場初公開となる四本は、人間たちや動物から雨や雪、紙幣にまで至るあらゆる被写体を一切特別視せず、全てを同じようにフラットな目線で画面に収める。そんな民主的な眼差しから、『ANORA アノーラ』で第77回カンヌ国際映画祭パルム・ドール、さらに第97回アカデミー賞五部門を受賞したベイカー監督作を一貫して特徴づけてきたインディペンデント精神の息吹をぜひとも感じ取っていただきたい。

 1971年生まれのベイカーは、地元ニュージャージー州を舞台とした初監督長編『フォー・レター・ワーズ』(2000)で二十代の終わりにデビューを果たす。ホームパーティーでバカ騒ぎする男子大学生たちの一夜を切り取ったこの映画は、題材や構成の類似からか、『スラッカー』(1991)や『バッド・チューニング』(1993)といった90年代にリチャード・リンクレイターが監督した若者映画と比較されることも多いようだ。

 しかし、ベイカーの関心はおそらくモラトリアムの時間そのものの充実というよりは、もはや高校生ではなく、まもなく社会に出なければならない未来をどこかで自覚してもいる学生たちの戸惑いと、それでも開き直って騒ぐことしかできない彼らの滑稽さを活写することにあったはずだ。

 その意味で本作はむしろ、成功しているかは別としても、既婚子持ち中年男性たちのホモソーシャルな戯れを活写したジョン・カサヴェテス『ハズバンズ』(1970)の大学生版を意識した面があるだろう。

 伝説的ポルノ女優トレイシー・ローズのベスト作品について早口で議論するギークたちと、卒業文集で哲学者ラルフ・ウォルド・エマソンの言葉を引用する主人公が併存する脚本の振幅の大きさや、ゲロへの過剰なこだわりにはその後の傑作群の片鱗も見える。

 だが多くの人物を群像劇的に描く構成が裏目に出たのか、次作以降とは異なり各キャラクターの人物像は特定のスクールカーストと結びつく紋切り型の域を出ない表層的なものにとどまっている。

第二作『テイクアウト』が映し出す「労働のリズム」

『ショーン・ベイカー 初期傑作選』
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 大学入学後に暮らしてきたNYを舞台とした続く第二作『テイクアウト』(2004)はデビュー作とは全く異なる感触の一本だ。ある朝、中華料理屋で働く中国人不法移民ミンの部屋に密輸業者たちが押し入ってくる。必ず今日中に借金を返すよう告げられた彼は親戚や友人からカネを借りて回るが、必要な額にはまだ足りない。目標額を達成するためには、普段の倍以上の金額をデリバリーで稼がねばならない。大雨にも負けず、ミンはひたすら自転車を走らせるが…。

 その後も主にプロデューサーとしてベイカーを支えていくツォン・シンチンと共同で監督したこの映画で彼は、事前の綿密なリサーチに支えられた舞台設定と脚本の構築、ロケーションや作品ごとの空気感にあわせた多彩な撮影方法の選択といった、これ以降制作の軸となっていく方法論を掴みとった。

 彼らは9.11以降のNYのスナップショットとして、中国系不法移民によるデリバリーの現場に注目した。不法移民たちはどの程度の借金を負って渡米し、どういったスパンで返済を行なっているのか。舞台となった料理店の周辺で実際に聞き取った物語を取り入れた会話は、彼らの生きる現実に即したものだ。また、富裕層の住む地区で五ドルの報酬を見返りに出演者を募り、実際に料理を届けたその場で簡単な演出をつける形で撮影することで、ミンによる受け渡しはいずれもほとんど隠し撮りしたようにしか見えないドキュメンタリー的な現実感を獲得した。

 のちに『家族を想うとき』(2019)で配達員の苦境を描いたケン・ローチにも通ずるこれらネオリアリズム的な要素に加えて、従業員たちとその仕事ぶりの切り取り方など、本作は撮影と編集における創意工夫の数々にも目を見張るものがある。手持ちの小型カメラソニーPD150 DVを自ら構え撮影と編集も兼任したベイカーは、中華料理店の一日を表現するにあたり、何よりも労働のリズムに注目したと思しい。

 ミンの出勤以降、映画は店内での調理や接客と店外でのミンの配達をほぼ交互に映し出していく。まずベイカーは、撮影にあたって店を貸し切るほどの予算を確保できなかったことを逆手に取り、営業中の店内でてきぱきと進められる調理の様子、それらと並行して交わされる従業員や客の雑談を、省略を生かしつつ的確に画面に収めていく。

 同様にミンが自転車で客の元に商品を届け、受け取った紙幣を店内のコップに収めるまでの運動もまた効率的に省かれ、降り続ける雨と彼の寡黙さも手伝って過酷でミニマリスティックな反復の印象をもたらす(店を貸し切る資金がない制作陣にはもちろん天気を待つ余裕もなかった。雨によって配達シーンの画面を活気づけることができたのは、撮影期間中にたまたま奇跡的な幸運に恵まれ、NYが記録的な豪雨に見舞われ続けたからだという)。

 ベイカーはそれぞれ自分の仕事=アクションに集中する店員たちが刻むリズムの安定感を強調する。この心地良くも忙しない一定のリズムは労働の単調さをある程度示しつつ、同時に後半に少しずつ起こる変化への観客の感受性を高めもする。

 ミンのためにデリバリーの仕事を譲りその結果ほぼ職場でサボっているだけの友人ヤングもうまくアクセントにしながら、映画は小さなズレを巧みに掬いとっていく。好き勝手なカスタマイズを要求する客や肉の種類について騒ぎ立てるクレーマー、自転車のパンクといった細部がいずれも強く記憶に残るのは、粛々と職務を遂行する店員たちの運動が構成する規則的なリズムを強調した編集ゆえだろう。

 一方で、終盤に店員たちのアクションと店外―店内の交替ペースが明らかに加速し始めた際にわれわれが不安を煽られるのもまた、それまで刻まれてきた一定のリズムに馴染んできたからだ。

 家族や同僚にいいところを見せたい。ミンが必死で手に入れた紙幣の束は、面子を保つことへの彼の執着と強く結びついていた。その後に起きるある事件と意外な結末は、札束は持ち主の気持ちになどなんの関心も持たずただ移動を続けるという事実を容赦なく、かつあっけらかんと示すことで、かえってミンの男らしさと結びついたこだわりを解きほぐすかのようだ。

 店で札束を数えるミンの動きにも顕著にあらわれていた速度と資本主義の密接な関係は、続く二作品で無一文の赤子と富豪の老婆という正反対のベクトルから問い直されることとなる。

第三作『プリンス・オブ・ブロードウェイ』で見せた飛躍と作家性の確立

『ショーン・ベイカー 初期傑作選』
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 前作に続きTV用のパペットショーの製作で得た資金を元手に撮影された第三作『プリンス・オブ・ブロードウェイ』(2008)で、再びベイカーは飛躍した。舞台は再びNY。偽ブランド品の販売で生計をたてるラッキーの元に、ある日元彼女が突然現れる。女は自分の子なのだから育児に協力しろと、存在すら知らなかった男児を二週間の約束でいきなり彼に預け、新しい男の元へと去っていく。取り残された赤子とラッキーの奇妙な共同生活の行方は…。

 マンハッタンの問屋街を舞台にした次回作を構想していたベイカーは、一年近いリサーチの初期にまず俳優志望だった主演のプリンス・アドゥと出会う。彼とのやりとりを通じてガーナ系移民の生活を学ぶなかでダレン・ディーンとともに脚本を練り上げたベイカーは、最初の取材から実に約一年半後に撮影を開始した。

 手持ちカメラを自ら構えた撮影を継続しつつも、今作でベイカーはアクションそのものよりも行為するそれぞれの俳優の存在により焦点を当てた。敬愛するカサヴェテスやダルデンヌ兄弟の初期作からの影響は次作以降と比べてもわかりやすいが、アドゥや常連にしてベイカー組のベン・ギャザラと言えるかもしれないカレン・カラグリアンらの多くの観客の心を引きつけてやまない愛嬌は、偉大な先輩たちの映画を彩った登場人物たちにも決して引けを取らない。

 十分な時間をかけて被写体と関係性を構築することでベイカーは、演技経験の有無にかかわらず、役者たちから作為とは無縁の人間味を引き出すことに成功した。前作と合わせ、ベイカー映画の魅力を特徴づける諸要素は、すでにこの時点でほぼ出揃ったと言える。

 赤ん坊をはじめて部屋に入れた際、マリファナと引っかけたマクドナルドのパロディTシャツを身にまとったラッキーは、言葉のわからない幼児に向かって、大切なポルノのコレクションとドラッグには決して手を触れないよう念を押す。

 この時点では責任という言葉とはもっとも縁遠い存在のように見えたラッキーはしかし、後にプリンスと名付けることとなる赤ん坊よりもよっぽどしょっちゅう泣き、弱音を吐き、はたまた逆に怒り狂って友人に八つ当たりしながらも、少しずつ男児との不思議な絆を深めていく。

 元々はラッキーが進学のために蓄えていたはずの札束は、今回も前作と同様に思わぬ形で姿を消す。映画の締めくくりは、札束と交換されたDNAテストの結果そのものではなく、彼がテストを受けようとした理由にこそ換金できない価値があったかもしれないことを、ほとんど落語のようなとぼけたユーモアとともにそっと仄めかしているだろう。

第四作『スターレット』の“遅さ”と“引き”のカメラポジション

『ショーン・ベイカー 初期傑作選』
© 2012 STARLET FILMS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED

 舞台をロサンゼルスへと移し、前作を気に入ったデュプラス兄弟が資金を援助する形で制作された『スターレット』(2012)で、またしてもベイカーはいくつかの新しい挑戦を試みた。TVの企画で長年業界の人々と個人として付き合ってきた彼は、今度は非日常と結びつけられがちなポルノ産業を日々の生業とする女性たちの等身大の日常に目を向けた。

 愛犬のチワワとともに同業者の友人メリッサとその彼氏が住む家の一室を間借りすることになったポルノ女優のジェーンは、部屋の模様替えのため近所のガレージセールで目ぼしい品物を物色する。近所に住むいかにも偏屈そうな年寄りの女性セイディーから、返品は受け付けないと再三強調されながらも魔法瓶を購入した彼女は、すぐにその瓶のなかに大量の札束を発見する。ジェーンはカネの出所を確かめるため改めてセイディーを訪ね、そこから二人と一匹の奇妙な交流がはじまる。

 続く『タンジェリン』(2015)でもベイカーと共にカメラマンを担当するラディウム・チャンに撮影を託したこの映画では、まず冒頭のショットにハッとさせられる。

 徐々に朝日が差しこんでくる新居の壁紙を捉えた画面の右下に、誰かが映写機とスクリーンの間で立ち上がったのかと錯覚するような形で、人間の頭髪がぼんやりと映りこんでいる。劇伴とともに壁紙の中央にはそのままスタッフロールが流れるが、それが途切れると程なくして髪の毛は動き出し、その髪はベッドで寝ていたジェーンのものであることが発覚する。起き上がった彼女の顔がようやくフレームインしたタイミングで、タイトルが大写しとなる。

 彼らの制作環境そのものをユーモラスに反映したかのように外部の資金が投入されたこの映画では過去二作とは逆に、まるでファーストショットにおけるジェーンの頭のように不意に彼女の元に札束が転がりこむ。セイディーは当然ながら、スーパーやビンゴゲームの会場にまで現れるジェーンをはじめは大いに警戒する。

 映画は、あらゆる関係性に金銭を介在させようとする裕福な未亡人セイディーが少しずつジェーンに心を許していく様子を、『テイクアウト』とは正反対の遅さでじっくりと追う。そしてその遅さは、舞台となる空間とそれを捉える撮影の性質とも不可分な形で表現される。

『テイクアウト』では雨、『プリンス・オブ・ブロードウェイ』では雪とともに猥雑で喧騒に満ちたNYの街を至近距離から捉えた前二作のカメラとは対照的に、ソニーのデジタルカメラを用いたチャンはしばしば人物からやや引いた位置にカメラを構えつつ、野外ではLAの抜けるような青空と開けた空間を、室内のシーンでも豊かな自然光をフレームに収めていく。

 無人の空間の広大さが強調されるからこそ、そこで肩を寄せ合う二人の女性が次第に育むどこかハル・アシュビー『ハロルドとモード』(1971)を想起させもする信頼関係は、なおさら貴重なものとして映る。『スターレット』は前作とは異なる角度から、親子以上に歳の離れた二人の女優の生き生きとした表情を画面に忘れがたい形で定着させた。

 さらに、前二作ほど被写体に寄らないカメラ位置は、性別や年齢、職業に関係なく周縁化されがちなあらゆる人物に平等な視線を向けるこの映画の姿勢とも呼応している。

 ポルノ産業とLAという組み合わせはたとえばポール・トーマス・アンダーソン『ブギーナイツ』(1997)を思わせもするが、同作と比較してこの映画では、ジェーンやメリッサのポルノ女優、セイディーの亡き夫のギャンブラーといった仕事が、ほとんど物語上の重みづけを与えられない設定として登場している点がかえって重要だろう。

 特定の職業を差別するのでも、逆に職に貴賎はないのだと必要以上に力をこめて擁護するのでもなく、映画はカネを得て生計を立て、日々生活を続けていくための当たり前の行為としてジェーンらの仕事ぶりを淡々と捉える。

 振り返れば元々つけられていた邦題は、このように視覚的演出のレベルでも徹底されているセックスーカーを特別視しない姿勢と根底から矛盾するものだったと言える。今回の特集上映を機に原題に沿う形で改題がなされたことは、その意味でも歓迎すべきだろう。

札束と紙切れ——ショーン・ベイカー作品の中核

『ショーン・ベイカー 初期傑作選』
© 2012 STARLET FILMS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED

 ポルノ産業に従事する女性たちは、広義のセックスワーカーとして金銭を対価として親密な触れ合いの時間を提供する。今作において、動画撮影と並んでファンイベントでの握手会と写真撮影のシーンが描かれることも象徴的だ。メリッサはそのような自らの仕事の性質を強く意識するゆえか、友人であるジェーンとの間に貸し借りを超えた金銭のやり取りを介在させることを一貫して拒む。

 終盤、彼女がセイディーにジェーン再訪の理由をあえて告げるのは、二人の仲に嫉妬したからだけではなく、二人の関係が札束に媒介されたものだったからからもしれない。いずれにせよ、ついにセイディーは真実を知ってしまった。では、その後彼女はどうするのか。

 彼女にとってもジェーンにとっても、金銭のやり取りがコミュニケーションに先行することは良くも悪くもありふれた日常に過ぎない。そんな二人とともにカネを介した関係をフラットに見つめ続けてきたからこそ、われわれはセイディーが最後に行う選択に胸を打たれるのだ。

 ベイカーがつねに資金不足に苦しみながらも粘り強く世に問い続けた『テイクアウト』以降の三作はいずれも、カネと生活をめぐる大騒ぎを映画の中核に据えながらも、最終的に札束が結局は単なる紙切れにすぎず、カネが単なる記号にすぎないことを露呈させる。

 映画を通じて必ずしも「カネの切れ目が縁の切れ目」とは限らないと示すことは可能か。新作を撮るたびにカネを媒介に新たな演者たちと濃密な関係を結んできたベイカーにとって、この問いは『ANORA アノーラ』に至るまでの全作品、さらにはかつてない金銭的自由とともに制作されるはずの次回作においても、間違いなく中心を占めるものであり続けるはずだ。

【参考文献】
Hannah Lack “Sean Baker Shares the Story Behind His 2004 Masterpiece Take Out” AnOther, Oct 17, 2022.
“Interview: Sean Baker, ‘Starlet’” Film at Lincoln Center, Nov 9, 2012.
Ryan Koo “’Prince of Broadway’ Director Sean Baker on No-Budget Filmmaking, Improvisation, and Long Release Cycles” Nofilmschool, Oct 18, 2011.
常川拓也 「オスカー5冠『ANORA アノーラ』のショーン・ベイカーは、アメリカの周縁を見つめる【90分の世界地図】」Jul 12, 2025.
「『タンジェリン』ショーン・ベイカー監督インタビュー」NOBODY, Dec 22, 2016.

【著者プロフィール:冨塚亮平】

アメリカ文学/文化研究。神奈川大学外国語学部准教授。ユリイカ、キネマ旬報、映画秘宝、Kelly Reichardt: Six Films/ケリー・ライカートBlu-ray Collection、ブックレットなどに寄稿。近著に共編著『ドライブ・マイ・カー』論』(慶應大学出版会)、共著『映画で読み解く現代アメリカ2 トランプ・バイデンの時代』(明石書店)、『アメリカ文学と大統領 文学史と文化史』(南雲堂)、『ダルデンヌ兄弟 社会をまなざす映画作家』(neoneo編集室)。

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