『RENOIR』、またはいまひとたびの黒(Re: Noir)――少女は夏の夜に競走馬の夢を見るか? 映画『ルノワール』考察レビュー
第78回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に、日本映画として唯一選出された話題作『ルノワール』。主人公・フキが見る夢、画面にたびたび現れる動物たち、そしてオーギュスト・ルノワールの名画「可愛いイレーヌ」。気鋭の映画研究者が、ちりばめられたイメージの数々を丁寧に読み解きながら、この異色作の魅力に迫る。(文・伊藤弘了)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価 レビュー】
——————————
意味の余白を埋めていく快楽
映画『ルノワール』の冒険
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ(清原深養父)
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは(清原元輔)
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ(清少納言)
人間はどうしようもなく「物語」に惹かれてしまう生き物である(「意味」に囚われていると言い換えてもよい)。このとき、物語を志向する人々の態度は、二つに大別される。
ウェルメイド(well-made)な物語を歓迎する態度がそのうちのひとつであるとすれば、他方には、意味の余白を埋めていくことに快楽を見出す態度が想定できる(じっさいに主流派を形成しているのは前者だろうが、いずれにせよ、どちらがより上等であるかという話ではない)。映画『ルノワール』(早川千絵監督)は観客に後者寄りの態度を求める作品である。
物語に取り憑かれた人間は、荒唐無稽な夢の内容にさえ筋道立った意味を読み込もうとする。また、たとえばハリウッドが「夢の工場」と呼ばれることに端的にあらわれているように、映画はしばしば夢になぞらえられる。なるほど、断片化されたひとつひとつのショット同士のつながりは、本来きわめて脆弱なものである。それらの断片的なイメージは、適切に編集(配置)されることではじめて意味を帯び、物語らしきものを紡ぎ出す。そうであればこそ、仮構された意味の連なりをときほぐし、そこに別様の物語を立ち上げることもまた映画批評家の仕事となるだろう。
少女はなぜ狼男の夢を見るのか?
通っている英語教室の先生から夏休みの話題を振られ、「山と海、どっちに行きたい?」と尋ねられたフキ(鈴木唯)が「海」と答えるのは、至極当然である。なぜか? 彼女が『お引越し』(相米慎二監督、1993年)のレンコ(田畑智子)や『こちらあみ子』(森井勇佑監督、2022年)のあみ子(大沢一菜)に連なる人物だからである。あるいは、うちに秘めた悪意を含めて『悲しみよこんにちは』(オットー・プレミンジャー監督、1958年)のセシル(ジーン・セバーグ)になぞらえてもよいだろう。彼女たちには海が似つかわしい。
じっさい、フキは自転車やタクシーや馬や電車や船を乗り継ぎ、両手いっぱいの死を抱えて、やがて海へと漂着する。安易な要約を拒むことは、いかようにでも要約できることと表裏一体である。そうした観点からは、本作の物語を「ビデオに映る子どもたちの泣き顔に始まり、動物たちの鳴きマネを経由して、フキの頬を流れる一筋の涙へと至る水の物語」と要約することも許されるだろう。夫を亡くしたばかりの久里子(河合優実)の涙や、フキの心象風景を反映したかのような土砂降りの雨は、さながら山間部に降った雨が川を経由してやがて海へと流れ着くがごとく、「ライディーン」(YMO、1980年)が鳴り響く山間のサマーキャンプの思い出や川沿いで展開されるいくつかの印象深いシーンを経て、クルーズ船の上で踊るフキの夢へと流れ込んでいく。
『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982年)のデッカード(ハリソン・フォード)が電気羊ではなくユニコーンの夢を見るように、フキは競走馬ではなく狼男の夢を見る。精神分析における夢判断の知見に従うまでもなく、劇中のフキが見る夏の夜の夢は願望充足の場として機能している。目覚めているときに経験した事柄は、形を変えて夢にあらわれる。『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ監督、1973年)ならぬ「馬のいななき」は狼男の遠吠えに読み換えられ、伝言ダイヤルの男に言われた「口臭いよ」という言葉は、ブランケットをめぐって早朝のファミレスで母親と交わした「臭い」「臭いね」の会話とともに、狼男が周囲に漂わせる強烈な獣臭に置き換えられる。そして何より、死んだはずの父親は蘇り、何食わぬ顔をして朝食の場に同席するだろう。
馬の鳴きマネが呼び起こすもの
動物、特に馬の鳴きマネを得意とするフキは、馬に導かれるようにして出会いと別れを繰り返していく。同じ英語教室に通うちひろ(高梨琴乃)と友達になったきっかけは、フキが彼女の三つ編みのおさげ髪(ここでは言葉の厳密な意味を離れてあえて「ツインテール」と呼びたい)に触れたことだった。これだけでは何のことかわからないかもしれないが、その後、同じマンションに住む未亡人の久里子に催眠術をかけようとした際、彼女の「ポニーテール」をひとなでしていたことを思い起こせば、馬の尻尾つながりであることが自ずと知れるだろう。
そうであるとすれば、(マネではなく)ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」の複製画にフキが目を留めた理由も、馬と女性の髪型との連想で考えるのがむしろ自然である。「可愛いイレーヌ」の豊かな栗毛は、馬のたてがみのように見えてこないだろうか。
同様に、フキが披露する馬の鳴きマネは、伝言ダイヤルで知り合った自称大学生の浪人生(坂東龍汰)と直接会う機会を引き寄せる。鶏の鳴きマネにはなかった「逢瀬を可能にする力」が、どうやら馬の鳴きマネには備わっていたようである。癌に冒された父とともに競馬場を訪れたフキは、浪人生に追い返された後に同じ競馬場を再訪し、そこで出会った白馬と、鳴き声を通して魂の交感を図ることになるだろう(競馬場のモチーフはまた、『菊次郎の夏』[北野武監督、1999年]の映画的記憶を呼び起こしもする)。
暗闇に浮かび上がる光のことを夢と呼ぶか映画と呼ぶかはさしあたりどちらでもよい。いずれも光と影が見せる幻影には違いないからである。その意味で、夢によって、あるいは夢のような緩やかさをもって構成された本作が「ルノワール」と題されていることは徴候的である。
黒の再来
ル・ノワール(Re Noir)。黒の再来は、その間に挟まる白または光を前提とする。圭司(リリー・フランキー)が自宅マンションの一室の電灯をつけると、その壁に詩子(石田ひかり)が用意した喪服が浮かび上がる。光の下でその姿を露わにした喪服の漆黒は、単なる暗闇より一層暗い影を圭司の心に落とすだろう(だからフキは即座に部屋の明かりを消す)。
キャンプファイヤーの炎に照らし出されたフキの顔は、夜の病院の鏡に映る圭司の顔と好対象をなし、フキが反射させる手鏡の光は圭司の落ち窪んだ眼窩を際立たせる。映画の掉尾を飾るのは、フキと詩子を乗せた列車(アイアン・ホースの後継たる電車)が、トンネルの暗闇に沈み、再び陽光の下に戻ってくるシーンである。(最終的にはどうあっても暗闇に帰着するほかないとして)いずれは彼女たちが見ることになるであろう走馬灯も、かように美しい明滅を繰り返すに違いない。
【著者プロフィール 伊藤弘了(いとう・ひろのり)】
映画研究者=批評家。熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。小津安二郎を研究するかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。「國民的アイドルの創生――AKB48にみるファシスト美学の今日的あらわれ」(『neoneo』6号)で「映画評論大賞2015」を受賞。著書に『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)がある。
【関連記事】
・【写真】貴重な劇中カットはこちら。映画『ルノワール』劇中カット一覧
・「鈴木唯は”演じている”を超えていた」映画『ルノワール』早川千絵監督が語る映画制作の原点とは? 単独インタビュー
・映画『ルノワール』鈴木唯×石田ひかり×リリー・フランキー、スペシャル鼎談。カンヌの地で語った「特別な作品」への思いとは?
【了】