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「命の重さ」をめぐるジレンマ〜脚本の魅力

マット・デイモン(右)、トム・ハンクス(左)(『プライベート・ライアン』撮影現場にて)
マットデイモン右トムハンクス左プライベートライアン撮影現場にてGetty Images

本作はただいたずらに戦争の悲惨さを描いているわけではない。「命の重さ」が抱えるジレンマにも鋭く深く切り込んでいる。原題の「Saving Private Ryan」とは、「兵卒ライアンの救出」という意味。

1953年生まれの脚本家・ロバート・ロダットのオリジナルシナリオではあるが、着想の元となったのは、第二次世界大戦で軍隊に所属したナイランド兄弟の逸話である。4人からなるナイランド兄弟の母は、ある日、長男、次男、三男の死亡通知を同時に受け取り、失意のどん底に。マット・デイモンが演じたライアンのモデルとなったのは、末っ子のフレデリック・ナイランド三等軍曹。米軍には、ソウル・サバイバー・ポリシー(軍務により家族の他のメンバーを亡くした場合、生存している兵士は戦闘任務を解かれ優先的に生存させられる)なる規則があり、フレデリックは前線から離れ、帰国させられるようになった。

もちろん、映画とモデルとなった実話には相違点もある。映画では、兄弟で唯一の生き残りであるライアンを救うための部隊が招集されるが、その部分は創作である。ちなみに、戦死が公表されたナイランド兄弟の長男は実は生きており、戦後に母親と再会を果たしている。

オマハビーチの死闘を命からがら潜り抜けたミラー。そんな彼のもとに、兄弟3人が戦死したライアンの救出命令が下る。彼は、1人の兵士を救うために7名の部下を結集し、決死の作戦を遂行する。

しかし、1人の命を助けるために、8人の命を危険に晒すのはどう考えても割が合わない。現にライベン(エドワード・バーンズ)は作中で次のように答え、任務を忠実に遂行しようとするミラーに争い続けようとする。

「8人が命を懸けて1人を助ける? フーバー(註:戦時中のアメリカ大統領)から下された任務でも? 俺にもお袋はいるぜ。中隊長にもな」

ある人を助けるために他の人を犠牲にすることは果たして許されるのか。この問いは、哲学の難問として知られる「トロッコ問題」に類似している。「トロッコ問題」とは、暴走トロッコの軌道を変えずに複数人を見殺しにするのか、トロッコの軌道を変えて複数人を救い1人を犠牲にするのかを問うもので、ベストな答えはいまだに見つかっていない(というより存在しない)。

本作では、ライアン二等兵の救出のために最悪の結末を辿ることになる。ライアン1人を救うために、ミラーたち全員が犠牲になってしまうのである。次々と散っていくミラーたちを前に1人生き残ってしまったライアン。ミラーは、そんなライアンにこう告げてこと切れる。

「無駄にするな。しっかり生きろよ」

それから数十年後、ライアンはミラーの墓の前にいる。年老いた彼は、墓に向かって「おかげさまで一生懸命生きました」と報告する。

しかし、ここでライアンが“よりよく”生きたからと言ってミラーたち8人が息を吹き返すわけではないし、ライアンの心の重みが晴れるわけではない。それは、ライアンのせめてもの償いにすぎない。年老いたライアンの目の前に累々と並ぶ兵士の墓と、画面いっぱいにはためく星条旗。その背後に隠された犠牲を考えるとなんともやるせなくなる。

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