母親としての変わらぬ思いをリアルに体現

樹木希林『わが母の記』(2012)

樹木希林
樹木希林【Getty Images】

【作品内容】

昭和39年、小説家の伊上洪作は父の死を機に、幼少期に離れていた母・八重の世話を始める。妻や娘、妹たちに支えられ、幼い頃の記憶と八重の想いに向き合う中で、薄れる記憶の中の母の愛を理解し、徐々に受け入れていく物語。

【注目ポイント】

井上靖の自伝的小説を原作に、昭和の時代を背景として、家族の絆と母への愛情を丁寧に描いた本作。物語は、認知症を患う母・八重(樹木希林)と向き合う作家・伊上洪作(役所広司)の姿を中心に展開される。

伊上は、母の介護を通して、これまで目を背けてきた家族の歴史や自身の人生と静かに向き合っていく。幼少期に離れて暮らしたことで生まれた母への距離感。記憶が薄れていくなかでも息子を想う母の深い愛情。本作は、そんな複雑な親子の関係を繊細に描き出している。

なかでも本作最大の魅力は、認知症を患う母・八重を演じた樹木希林の圧倒的な演技力にある。認知症による混乱や戸惑いの中にも、母としての矜持と愛情が宿っており、表情や言葉のひとつひとつが観る者の胸を打つ。

たとえば、香典帳にこだわる場面では「きちんとしなければ」という家長としての責任感が滲み出ており、懐中電灯を手に夜な夜な徘徊する姿からは、母親としての変わらぬ思いが感じられる。そうした細やかな演技で、八重の内面を生き生きと体現しているのだ。

樹木希林はこの役で、第36回日本アカデミー賞・最優秀助演女優賞を受賞。演技の成熟が作品全体に深みを与えている。

撮影は、原作者・井上靖が実際に暮らしていた自宅で行われた。もともと樹木希林には別の役の出演が打診されていたが、当初は辞退を考えていたという。しかし、撮影場所が井上邸であると聞き、「その家を一度見てみたい」という想いから、最終的に八重役を引き受けたという逸話も作品に一層の奥行きを加えている。

一つひとつの所作に重みがあり、登場人物の心情を丁寧にすくい上げた樹木希林の名演が、観る者の記憶に深く残る一本である。

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