“災害”としてのゴジラに挑んだプロット至上主義の傑作
『シン・ゴジラ』(2016)
監督:庵野秀明、樋口真嗣(特技監督)
脚本:庵野秀明
キャスト:長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ、高良健吾、市川実日子
【作品内容】
日本版のゴジラとしては、『ゴジラ FINAL WARS』(2004)以来、12年ぶりの映画作品で、シリーズ29作目。ある日突然、東京湾で水蒸気爆発が起きる。その事実はすぐに大河内清次総理(大杉漣)の耳にも入り、慌ただしく動く日本政府。その原因は海の中に潜むゴジラだった。赤い液体を体から噴出させながら接近するゴジラ。そしてついに、大田区蒲田に上陸し、都心へと突き進む。東京の街は逃げ惑う人々で阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
目的も正体も分からないゴジラに翻弄される日本。そんな中、内閣官房副長官を務める矢口蘭堂(長谷川博己)はその存在に対抗する術を探す。しかし、海外各国は核兵器を使い、街もろともゴジラを破壊しようと考え、その案は国連安保理の場で決議されてしまう。
【注目ポイント】
物語には、大きく分けて「プロット主導型」と「キャラクター主導型」の二種類がある。前者は物語の展開や構造に重きを置き、後者は登場人物の心情や成長を軸に物語が進行する。多くの脚本はその両要素をバランスよく組み合わせているが、『シン・ゴジラ』は、きわめて純度の高いプロット主導型の成功例として特異な存在感を放っている。
この作品において、主人公と呼べるのは「ゴジラが現れたというシチュエーションそのもの」であり、個別の人物ではない。登場する政治家や官僚、学者たちは実にリアルで、むしろゴジラという「非現実」の存在を除けば、すべての描写は現実的なロジックに基づいて構築されている。巨大ロボットも、光の戦士も登場しない。ただひたすらに“災厄”としてのゴジラに、人類が現実的な手段で対応しようとする過程が描かれる。
興味深いのは、『新世紀エヴァンゲリオン』という、まさに「セカイ系」の象徴とも言える作品を生み出した庵野秀明監督が、本作においては徹底してキャラクターの内面描写を排し、状況とその対処に焦点を当てた点にある。『エヴァ』に見られるようなキャラクターの葛藤や精神的深淵への沈潜は、『シン・ゴジラ』には一切ない。
『シン・ゴジラ』は、プロット主導型の純度を極限まで高めた、ハードSFのような構成と緻密なロジックに貫かれた稀有な成功例だ。その対極に位置するキャラクター主導型の脚本家としては、坂元裕二や岡田麿里といった作家たちが代表的であり、彼らは登場人物の繊細な心の動きを軸に物語を紡いでいる。