観た人の数だけ答えがある結末
『悪は存在しない』(2023)
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子、長尾卓磨、宮田佳典、田村泰二郎
【作品内容】
自然豊かな長野県水挽町で慎ましく暮らす巧(大美賀均)と娘の花(西川玲)。ある日、近隣にグランピング場の建設計画が持ち上がるが、水源汚染の懸念が浮上する。町に不安が広がる中、2人の平穏な生活も揺らぎ始める。
【注目ポイント】
濱口竜介監督が『ドライブ・マイ・カー』(2021)や『偶然と想像』(2021)に続いて手がけた長編作品『悪は存在しない』は、2023年のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞し、改めてその国際的評価を裏付ける1作となった。タイトルが示すように、この映画は単なる対立構図や勧善懲悪の物語ではなく、人間の“無自覚な善意”がもたらす静かな波紋を描き出している。
本作が非常に巧妙なのは、明確な“悪人”が一人として登場しない点にある。たとえば、村にグランピング施設の建設を進めようとする企業の担当者・高橋(小坂竜士)は、住民との討論会で苛立ちを見せる場面があり、当初はこの物語における「悪」の象徴かと思わせる。
しかし、物語が進むにつれて、その印象は大きく覆されていく。高橋はもともと芸能マネージャーとして働いていたが、会社の意向で今のポジションに就くことになったという経緯が明らかになる。さらに、彼自身は村の開発に対して慎重な立場をとっており、むしろ仕事を辞めてこの村に移住したいとさえ考えている人物であることが描かれていく。
こうした背景や内面に触れることで、観客は次第に彼に対して親近感を抱くようになり、単純な善悪では語れない世界観が浮かび上がる。
終盤、巧の娘・花が行方不明になったことをきっかけに、物語はサスペンスの色合いが濃くなっていく。巧は高橋と一緒に森の中を捜索する。ようやく花を見つけたと思った矢先、巧が取る行動は観客に大きな衝撃を与える。巧は高橋の背後からチョークスリーパーを仕掛け、高橋を失神させるのだ。カメラは彼らに寄ることはなく、2人がもみくちゃになる様子をロングショットで収める。カメラと被写体の距離が遠く、巧の表情が見えないため、彼の行動がいかなる感情に根ざしているのか、理解する術はない。
高橋を締め落とした巧は何事もなかったかのように歩みを進める。高橋は一度、起き上がるが、すぐに雪原に倒れ、彼が死んだのか、生きているのか明らかにしないまま、映画は幕を閉じる。ときに自然は、あまりにもあっけなく人間の命を奪っていく。そこに悪意など存在しない。仮に行方不明となった花が、野生の鹿に襲われ命を落としたのだとすれば、それは人間が自然界へと踏み込んだ結果として、自ら招いた災いとも言えるだろう。
巧が物語の終盤で見せたあの行動は、村という共同体を理解しようとする高橋に対する、最も強い拒絶の身振りだった。しかしその拒絶もまた、自然が時に人間に向けて無作為に振るう暴力と同様、何ら合理的な意味を持たないのかもしれない。