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「金もうけでやっている」なぜ日本アカデミー賞は黒澤明に批判されたのか? 世界的巨匠VS日本映画界。軋轢の歴史を解説

text by 編集部

黒澤明の製作した映画は、正しい評価を母国の日本で受けることができず、一時は二度と大作を撮ることはないだろうと思われたほどであった。そんな黒澤明は何故、日本国内で十分な評価を得ることができなかったのか。そして黒澤明が築いた海外の巨匠監督達との関係とは。今回はその内容を、現地メディア米MovieWebを参考に紹介していく。

三島由紀夫が批判…黒澤は国外に避難

監督の三船敏郎【Getty Imags】
黒澤明Getty images

黒澤明の映画界への貢献は明らかであり、パイオニアとして新たな芸術を映画で作り出した彼のその役割には議論の余地がないだろう。

大規模な戦闘から個人的な小さなドラマ作品まで、彼の数十年にわたる映画作品は、その幅の広さと力強いイメージを物語る。実際、全盛期であった1950年代当時から、映画作家としての彼のけた外れの実力は世界的に認められていた。

1950年代、黒澤明は映画界で最も偉大な頭脳の一人であり、生きる天才として、世界中の映画人から尊敬を集めた。60年代も彼の製作する映画のクオリティはその素晴らしさを保っていた。しかしその後、何かが変わる。

何世代もの若い映画人たちが彼の才能に魅了され、自国の日本でも彼の作品を偶然目にする程の認知度を獲得すると、突然彼は一蹴されることになる。戦後日本を代表する小説家・三島由紀夫は、黒澤流のヒューマニズムには「深みがない」と批評した。

しかしこれもまた、欧米に温かく受け入れられた芸術家に対する反発と見ることも可能だ。黒澤のインターナショナルな活躍は、憂国の士・三島の苛立ちを掻き立てたのだ。当時、三島に追従するようにして黒澤を嘲笑する人々は多く、彼の名声は陰りを見せはじめる。

その結果1970年代までに、日本映画界は一度、黒澤明を見限った。

彼はキャリアと尊厳、またはその正気を保つため、藁をも掴む思いで国外に避難。黒澤を生み出し、彼の想像力を育んだ日本という環境は、次第に本人の想像力を縛る牢獄と化していったのだ。

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