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実業家が独学で図面を引いた!

千日前には、「ミス大阪」「ミスパール」など老舗キャバレーのネオンがともる。写真:田中稲
千日前には、「ミス大阪」「ミスパール」など老舗キャバレーのネオンがともる。写真:田中稲

 味園ビルが立つ千日前は、戦後まもなくは進駐軍向けの盛り場だった。治安も決していいとはいえず、若者が軽々しく近寄れない歓楽街。

 千日前に遊びに行く際「アーケードがないところは行くな」と親にくぎをさされた思い出がある人もいるだろう。日本初のアルバイトサロン(現在のキャバクラ)が開店したのも千日前だ。

 しかし、ここから世界に通用するエンターテインメントを目指した人がいた。味園ビルの初代オーナーの志井銀次郎である。彼は台湾出身の実業家で、デザインや建築を専門に学んだことはなかった。が、熱意とアイデアは余るほどあった。

 戦後10年というタイミングで「おもろいビルをつくりたい」と思いつく。その「おもろいアイデア」とは「宇宙=ユニバースをビルで表現したい」だったのだ!

 無理。普通に考えれば無理。夢物語で終わってもいい話なのだが、志井氏は、なんと独学で建築の勉強をし、図面を引いた。さらに、自身の会社にいる、電器部門、技術部門、デザイン部門など、それぞれの専門の優秀なスタッフや職人にイメージを伝えた。

 そして専門家でないからこそ生まれる「そこにその装飾が持ってくる?」的ぶっとび発想がガンガンに実現され、そこが味園の一番の魅力となった。

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