ウソをついたことの一番の不幸と罰
楓のように人格形成において大事な幼少期に自己を否定された経験を持つ人にとって、この社会は、まるで肉食動物が闊歩するサバンナに草食動物が放り込まれるようなものだ。
他者の愛情に飢えているため、小さな優しさには簡単に心を射止められやすい反面、悪意やウソには騙されやすい。あるいは、さみしさゆえに、本当は相手の真意に気づいていながらもあえて見ないふりをしたり、相手への依存心から離れられなかったりもする。
終盤で、「ウソは一度でもつくとね…もうほかの誰のことも信用できなくなってしまうの、それが…ウソをついたことの一番の不幸であり罰なのよ」と、鈴子がオオカミ少年の話を例に挙げながら持論を述べていた。
ウソをついたことがある人は自分と同じように相手もウソをついていると疑うものだ。他者の優しさの裏を探ろうとし、この世界全体が偽りのように思えて孤独を感じる。確かに、こうした状況は何よりもの罰だ。
楓の「人はウソをつく 誰かのため 自分のため」と純の「人はウソをつく 自分のため 誰かのため」という台詞があった。
その通り、殆どの人が大小問わずなんらかのウソをついたことがあるはずだ。本作にはウソや寂しさ、欲望、支配欲など人間の暗澹たる部分が渦巻いている。楓と純、そして視聴者は人間不信の森を彷徨っている。私たちは森の出口、言い換えると真相にたどり着くことが出来るのだろうか。