令和のスター俳優が時代劇で体現する“蔦重リアリティ”

『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第3話 ©NHK
『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第3話 ©NHK

 庶民文化がすっかり板についた竹千代も畳の上に寝そべり、投げやりに「ちぇっ、べらぼうめぇ」と口にするが、『べらぼう』では今のところ町人以外はこの言葉を使用していない。

 上述した第1回冒頭の重三郎に始まり、彼を養育した駿河屋市右衛門(高橋克実)と幼馴染みの人気花魁・花の井(小芝風花)、さらに第4回ラストで再度、重三郎が怒りを込めて発する「べらぼうが!」の順番である。本作でも確かに頻出ワードではあるものの、ここでは『江戸っ子祭』のように江戸の音が風情の域にまで達しているかと言うと疑問が残る。

 長谷川一夫のコツン一発、あるいは右手人差し指でプイッと鼻をこする仕草ひとつを掬い上げることで、江戸っ子の気質、粋、生き方を一瞬で可視化する演出的工夫(さすが島耕二監督の大映作品だ)はまだまだ少ないと言わざるを得ない。

 だからひとまず「べらぼう」が意味するテーマ性については保留しておくとして、代わりに江戸っ子らしい所作を体現する横浜流星に注目してみる方が粋だろう。そこで再び『江戸っ子祭』を参照してみる。

 魚屋を生業にする太助は竹千代を連れて桶を肩にひょいとのせ、江戸中を走り回る。丈が膝上までしかない半股引から脚を露に力強く地面を蹴る。腰を落とした特徴的な江戸っ子走りである。

 重三郎役も第1回から走る。魚屋ではなく茶屋勤務の重三郎が着ているのは、足首あたりまでちゃんと裾がある着物だが、裾をまくって寺の境内を爆走する横浜流星は、江戸っ子らしい所作を端的に示している。

 そもそも時代劇の演技とは、腰を落とした重心の置き方が要(リアリティ)となる。武士なら腰元(刀)の重みを伝え、町人なら重みに軽妙さを加味した足捌きのバランス感覚でリアリティを担保する必要がある。

 長谷川一夫のような六大時代劇スター俳優には朝飯前でも、令和のスター俳優、横浜流星にはちと荷が重い。が、そこは我らが横浜流星である。常に役を演じるではなく「生きる」と公言する横浜は、彼なりのアプローチで江戸っ子所作を編み出し、自家薬籠中の物にしている。

 境内の爆走はその一例に過ぎない。長谷川のように一瞬の仕草を可視化する名人芸ではなく、横浜は重三郎がにこっと顔が固定されたように笑う署名的な表情の持続でさわやかに勝負している。令和のスター俳優が時代劇で体現する“蔦重リアリティ” である。

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