ドラマ『晩餐ブルース』第6話考察&感想レビュー。井之脇海のセリフがガツンと響く…疲れた心に沁みる理由とは? 【ネタバレ】
井之脇海&金子大地がW主演のドラマ『晩餐ブルース』(テレ東系)が、毎週水曜深夜にて放送中だ。本作は、仕事に忙殺されるサラリーマンと、夢から挫折し人生休憩中のニートが晩ご飯を一緒に食べる”晩活”グルメドラマ。今回は、第6話のレビューをお届け。(文・苫とり子)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価 レビュー】
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【著者プロフィール:苫とり子】
1995年、岡山県生まれ。東京在住。演劇経験を活かし、エンタメライターとしてReal Sound、WEBザテレビジョン、シネマズプラス等にコラムやインタビュー記事を寄稿している。
“役割”を生きる窮屈さ
監督とか、田窪って苗字で呼ばれてると、なんか記号になった気がするっていうか。下の名前で呼ばれると、人間に戻れる気がするんです」という優太(井之脇海)の台詞が仕事終わりの身体にガツンと響いた。
学生の頃は、苗字で呼ばれることなんてほとんどなかった。家でも学校でも呼び捨てか、「〜ちゃん」「〜くん」と下の名前で呼ばれることが多い。ところが、年齢を重ねていくと、名前で呼ばれることが減っていく。
多くの場合は、苗字で「〜さん」。特定の職業や役職、立場によっては、「先生」「監督」「部長」「課長」などと呼ばれたり、親になれば、「〜ちゃんママ」「〜くんパパ」と子供の名前が主になって、自分の名前はどこかへ消えてしまう。自分に“役割”ができたみたいで嬉しいと思う瞬間もなくはない。だけど一方で、自分がその“役割”ありきで存在するモノになったような気分になることもある。
人間は誰しも何者でもないただの人として生まれてくる。はじめから“役割”を持って生まれる人はいない。本来は、それでいい。
存在するだけで価値はあるとはいえ、人間社会で生きていくためにはお金が必要で、お金を得るためには働かなくちゃいけない。だから、自ずと人は“役割”を得ようとする。ただ存在しているだけというのは案外しんどいし、 “役割”があるからこそ人は生きていける、とも言えるかもしれない。
でも、与えられた“役割”だけをひたすら全うしていると、何やら自分が機械になったみたいで、それはそれで苦しい。“役割”を外した時、自分がどういう人間だったのか、どんどん分からなくなっていく。