『地震のあとで』第3話考察&感想レビュー。渡辺大知の芝居を存分に活かした改変とは? ラストで描かれた「救い」とは?【ネタバレ】
土曜ドラマ『地震のあとで』(NHK総合)が現在放送中だ。映画『ドライブ・マイ・カー』(2021)の大江崇允が脚本を務める本作は、村上春樹の珠玉の連作短編を原作にした“地震のあと”の4つの物語。今回は、第3話のレビューをお届けする。(文・ばやし)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価 レビュー】
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【著者プロフィール:ばやし】
ライター。1996年大阪府生まれ。関西学院大学社会学部を卒業後、食品メーカーに就職したことをきっかけに東京に上京。現在はライターとして、インタビュー記事やイベントレポートを執筆するなか、小説や音楽、映画などのエンタメコンテンツについて、主にカルチャーメディアを中心にコラム記事を寄稿。また、自身のnoteでは、好きなエンタメの感想やセルフライブレポートを公開している。
コロナ禍に舞台を移した『地震のあとで』第3話
第1話「UFOが釧路に降りる」は阪神・淡路大震災の直後、第2話「アイロンのある風景」は東日本大震災の直前。ドラマ『地震のあとで』では、これまで大きな災害の前後に心を揺らがせる人々の喪失や戸惑いを描いてきた。
今回の第3話「神の子どもたちはみな踊る」の舞台となったのは、コロナウイルスが猛威を奮い始めた2020年。当時、未知のウイルスによる被害が世界中に広まり、誰もが一様に不安を抱えながらも、どこかでその危機的状況を俯瞰的に見つめて生きていた。第3話の主人公である善也(渡辺大知)もまた、あの頃の感覚と似たような想いを抱いていたようだった。
不要不急の外出を控えるように言われていた時代であるにもかかわらず、善也はクラブで酩酊して踊り明かし、公共の電車に乗る際もマスクはつけていない。それは危機感が薄いというだけでなく、コロナ禍を自分事として認識するのが怖かったのではないだろうか。
善也を神様の子どもとして育ててきた母(井川遥)やふたりの恩人でもある田端(渋川清彦)に対しても、彼はやりようのない無力感を抱き続けてきた。自らの力では彼らの確固たる信仰心を変えることはできない。少年時代の徒労によって生まれた虚無感は、大人になった善也の心さえも支配していた。