何者にもなれない苦しみ
弱い=悪と思い込むことのつらさ
私たちの多くは、成長のどこかの段階で、「自分は何者でもない」という現実に気づく。流れ着いた場所で、平凡な日常を送ることが、生きることそのものになる。
かつて、何者かになろうと、YouTubeで発信していたが、現在は地に足の着いた暮らしをしている光(泉澤祐希)のように、それを受け入れることで得られる視点や価値も確かにある。ただし、誰もがその境地に達するわけではない。
公威や勇気、あるいはかつての誠司(桐谷健太)のように、弱さを「悪」とみなしてしまう人もいる。自分の弱さに苦しみ、それを憎んでしまうがゆえに、同じく弱さを持つ他人に対して過剰に攻撃的になることもある。結局のところ、それは過去の自分自身を否定し、踏みにじる行為でもある。
お金や社会的な地位がなければ、大切なものを守れなかったり、理不尽に奪われたりする現実もある。そうした経験が、復讐心や自己防衛に繋がるのも無理はない。
だが、それで心の痛みが癒えるとは限らず、むしろ傷口が深まることさえある。かといって、弱いままでいれば、さらに苦しい立場に追いやられる可能性もある。生きるとは、矛盾と困難の連続なのだ。
憎しみを燃料に社会的成功を収めたとしても、それは決して“ヒーロー”でも、“無敵”でも、“最強”でもない。本放送のラストで、誠司とその教え子たちが団結し、群衆を巻き込みながら公威率いるドリームグループに立ち向かった。公威の立場が揺らぎ始めていることが、画面の端々から伝わってくる。
かといって、弱いままでいれば、さらなる苦しみを味わう恐れもある。生きるとは難しく、どうすればよいのか分からないことだらけだ。