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視聴者に考える余地を与えるクドカンの脚本術

又吉直樹【Getty Images】

 ただ、本作はそんなに生温い物語ではない。こういう“街”で暮らしたいなと思い始めた視聴者の頬をぶん殴るようなエピソードを宮藤は物語中盤から盛り込んでくる。

 半助たちが暮らす仮設住宅は復興支援の一環で建てられたものであり、月収12万を超えたら即刻立ち退かなければならない。そのため、誰もがギリギリの生活を送っている。

 そんな“街”の片隅にはダンボールハウスが建っていて、“リッチマン”と呼ばれる男(又吉直樹)とその息子(大沢一菜)が暮らしていた。彼らはいわばホ一ムレスであり、息子は飲食店の残飯をもらいに商店街へ通うのが日課だ。

 “街”の人たちは彼らにも特に干渉しない。だが、ある日悲劇が起きてしまう。ホームレスの親子を巡るエピソードはあまりに救いがなくて、随分と引きずってしまった。あれだけ周りに大人がいるのに、何もできない現実に打ちひしがれそうになる。
 
 続くかつ子(三浦透子)の話も胸が引き裂かれそうなほど辛い。かつ子は地味で大人しいが、真面目な女性だ。だけど、そんな娘の容姿を母親は「まるで潰れたがんもどき」と揶揄し、“街”の人も彼女のことを蔑んでいる。

 その理由を長老のたんば(ベンガル)は 「働けど働けど報われず、楽になれない我が暮らし。そんな理不尽な境遇を具現化したのがかつ子ちゃんなんだ」と語った。

 貧乏を憎むがゆえにかつ子を憎む。“街”の人たちは温かいところもあるが、まっすぐに良い人たちではない。あえて月収12万の壁を超えないようにしている狡いところもある。支援される人たちは品行方正を求められがちだが、万人から支援したいと思われるような人間とは限らないのだ。だけど、果たして彼らから居場所を奪うのは本当に正しいことなのだろうか。

 物語の終盤では復興支援の一部打ち切りに伴って仮設住宅が取り壊されることになり、住民たちは退去を命じられる。仮設住宅はその名の通り“仮”の住まいなのだから、いつかは出ていかなければならない。だが、本作が物語の舞台を「仮設住宅のある“街”」としているように、長年そこに住み続けている人にとってはもはや“仮”ではなく、思い入れのある場所となっている。

 何が正解で、何が間違っているのか。簡単に答えが出せる問いではなく、観終わった後も延々と考えている。このような余韻に浸らせてくれるという点も、クドカン作品の魅力の1つだろう。

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