可視化されていく現実の歪み
「どんな非日常も時が経てば日常になる」
そう、人間には環境に適応する能力がある。姉が食事中に理解できないことを口走っていても両親はまるで動じることなく楽しそうに食事を続けている。それは喃語をくり返す赤ん坊と暮らしているようでもあった。その姿は我が子をあるがままに受け入れる強さにも思えたし、現実を受け入れられない弱さにも思えた。
また、父には医学者としての、母には研究者としてのもうひとつの人生がある。誰しも経験があるだろう。家族と一緒にいても自分しか見ていない。姉に至っては何を見つめているのかすら判別がつかない。知明さんがカメラを通して家族ひとり一人を見ようとすればするほど被写体が知明さんと向き合っていないことの空虚さが際立ち、うららかな光が射し込むリビングでの家族の光景に水を差す。
現実をあるがままに受け入れると同時に現実から目を背け続けることで保たれていた穏やかな日常は、姉が自分の年金貯金を解約して単身アメリカに渡り(そんなことができるのかと愕きもした)、保護されたところから深刻さを増していく。自立した大人に成長した知明さんも一歩踏み込んだスタンスで撮影に望んでいく。
姉と2人きりで対話を始める。本か何かで勉強したのだろうか。精神科医のように姉と対峙し、対話によって深層心理に踏み込もうとする。本心を引き出そうと自身の両親に対する愛憎も吐露する。だがその言葉は宙を漂い、ブラックホールのような姉の心に吸い込まれていく。
父親にはこれまでの姉への対応について追想させる。主題となっている「どうすればよかったのか?」という知明さん自身への、そして両親への問い掛けが始まっている。
「どうすればいいのか?」ではなく「どうすればよかったのか?」という後悔の念。振り返ったことでそこに取り戻せない時間が堆積していることに気づかされる。理知的な若さを放っていた姉の顔にも皺が増えている。20年以上、現実を放置し続けたことの罪深さが様々な形で可視化されていく。