両親の決断と知明さんの断罪
焦燥感とともに踏み込んだ知明さんの行動が状況を改善に向かわせるかと思いきや、2005年4月、母親は玄関に南京錠を掛ける。その施錠の仕方はサイコパスが張り巡らせた蜘蛛の巣のように複雑怪奇だ。表面的には穏やかだった母も実は相当追い詰められていたのではないだろうか。
知明さんはそんな両親を「問題解決能力がない」と断罪する。「一緒に暮らしていないあんたにはわからない」と母親は知明さんを全否定する。分かり合えないのは統合失調症の姉とだけではない。医学という第三者の介入を主張し続ける知明さんの思いを「姉のことは自分たちが1番理解している」と信じる両親には理解できていないだろうし、何より、我が子を統合失調症と認めたくない両親の苦しみも知明さんには同じレベルでは理解できていなかっただろう。
親にとって子どもは幾つになっても赤ん坊だ。幾つになっても守るべき存在だ。そして、何があっても「うちの子に限って」という正常化バイアスが働いてしまうのもまた親の特性である(それが数々の悲劇を生んできたこともまた事実なのだけれど)。
同じ家族であっても、立場が異なる親と子の間には互いに理解し合えない深い溝がある。姉に対する両親の思いの中には自分も親になってみないと理解できないものが多分に含まれている。子を持つ親の立場で本作を見れば知明さんの視点とはまた異なるものが見えてくるはずだ。
そもそも姉の精神状態に対する認識と解釈も、両親と知明さんでは大きく異なっている。年に一度しか会わない知明さんには姉は何もできないと思っているように映るし、一緒に暮らしている両親は「姉は何もできないわけじゃない」と繰り返し主張している。
観客であるわたしたちにも姉が単身アメリカに渡ったり、ペンネームで占いの本を自費出版していたという事実が断片的に提示される。本当に統合失調症なのか。そうだとするならばそれはどのくらいの病なのか。正しい知識のないわたしにはもはや判断がつかなかった。
そして、2008年5月。姉に精神科を受診する機会が訪れる。発症から25年が経過している。顔の皺はますます増え、見た目はほぼ映画序盤における母そのものだ。医療から遠ざけられたまま家の中に閉じ込められていた姉が、長い拘留の末に無罪が確定した冤罪犠牲者と重なる。
「四半世紀という過ぎ去った時間だけは二度と取り戻すことができない」。その重大な過ちがたっぷりと水を含んだ砂袋のようにわたしたちに丸投げされる。