『お引越し』が孕む真の過激さ
安田が初プロデュースした相米作品『東京上空いらっしゃいませ』において、ずらかり、大人の影響圏から脱し、死を見つめる存在――それは主人公の牧瀬里穂(公開当時18歳)であり、なんと彼女はすでに死した存在だった。死者が現生を見つめる作品だった。
そこから転じて、いや年齢的遡行をへた次作『お引越し』の新主人公は11歳の小学生少女(田畑智子)であり、彼女は両親の愛の死を見つめ、その死を洗い流そうと悪戦苦闘する。母の桜田淳子、父の中井貴一の眼前ですぐに駆け出し、姿をくらますことによって、大人たちが甘受した愛の死に非認定の判定をくだしたことを、なんどもなんども伝達する。
『お引越し』が真に過激なのは、この断念=諦念と、非認定の措置がいくどとなく反復され、それが大人のもとからの子どもの逃走線としてのみ描線が見え隠れするにとどまり続けるからである。この映画はそれしかしていないのだ。京都と大津という2つの古都で反復される逃走線は、単なる子どもの家出の範疇を越え、それぞれの都市における伝統的な祭礼で濾過されることによって、生死の境目を越境する儀式ともなっていく。大人たちは愛を棺に入れて視界を閉ざし、いっぽう子どもの視線はいよいよ死線を越えていく。