「グリーフ」だから繋がれるわけではない
映画を観ていて特に感じたのは、大切なものを亡くした人同士だからといって、決して同じ気持ちで繋がれるわけではないこと。
近しい人の死を実感できず、呆然とした生活を送る人。死を受け入れることなく、今までと変わらない生活を送る人。気丈に振る舞い、立ち直ったふりをする人。反応はさまざまだ。
昴の母・洋子もまた、夫を通り魔によって亡くしている。しかし、親子がその悲しみを真に共有していたわけではないことは、5年以上ぶりに会って交わした会話からも推察できる。
また「つきあかりの会」に昴が初めて参加した際、会を主催する牛丸(津田寛治)がグリーフケアでの声掛けについて語るシーンでも、死生観の相違が描かれていた。
「落ち込んでいる姿って、天国から見たくないんじゃないですかね」と昴が牛丸に聞き返すと「まぁ私だったらもし天国に行ったとしてその…家族が落ち込んでいる姿、ちょっとは見たいなと思いますけどね」と笑いかけながら答える。
映画で登場する人々は、誰もが異なるグリーフを経験していて、その悲しみは決して同じカタチをしていない。だからこそ、大切なものの喪失だけで人は真に繋がりあうことはできないのだ。
ただ、お互いの悲しみを直視して、輪郭をなぞりながらカタチを確かめあうことができたとき、彼らは本当の意味で自身のグリーフを受け入れられるのではないだろうか。
流れでる感情に蓋をすることなく、亡くした人にまつわる思い出を素直に語る人々の表情を見て、あらためてその想いは強くなった。