コメディの皮をかぶったシュルレアリスム映画
北野武を語る上ではずせない用語がある。それは「照れ」、つまりシャイネス(shyness)だ。
ビートたけしのパーソナリティは、デビュー以来、しばしばこの「照れ」とともに語られてきた。現に、たけしがバラエティ番組で、はにかんだような笑顔を見せながらギャグでごまかす光景は、おそらく誰もが見たことがあるだろう。
これは映画も例外ではない。現にたけしのフィルモグラフィには、ビートたけし名義で制作された映画『みんな〜やってるか!』(1995)や『監督・ばんざい!』(2007)といったように、あからさまにコメディに振り切った作品が随所に見られる。
これらの作品の特徴は、自暴自棄と言えるほどに底抜けに破天荒なことだろう。現に北野は『みんな〜やってるか!』について、「映画なんか壊してやろうと思って作った作品だけど、結局何も壊せずに終わってしまった」と語っている。
社会心理学者のM.R.リアリーは、シャイネスを他者からの回避的行動に特徴づけられるとしている(好きな人を避けてしまうという「好き避け」を考えるとわかりやすい)。
この文脈で考えると、これらの作品には、映画や、自身のパブリックイメージ、果ては自身の本職である笑いからすらも「脱線」を企てようとする強烈な力が働いていると考えられるだろう。
そしてこれは今回の『Broken Rage』も例外ではない。現に後半のパートでは、カットが切り替わるごとにタイムラインが「脱線」し、荒唐無稽な展開へと突き進んでいく。そういう意味で本作は「コメディの皮をかぶったシュルレアリスム映画」であり、シリアス&コメディの二層構造は、あくまで「脱線」を明示するためのギミックにすぎないといえるだろう。