「自由を得るために嘘を露呈させる」
甫木元空監督作品における“張りぼて”
―――本作には、甫木元監督の前作『はだかのゆめ』からの連続性も見出せると思いました。前作でも張りぼてのオブジェを使っておられますね。映画の虚構性をあえて露呈させるような試みをなさっています。多くの作品では、奥行きを仮構して平面性(嘘)が露呈しないようにするわけですけど、甫木元監督はそうはなさいません。
「先ほど写真についてお話ししたことに通じるのですが、映像が投射されるスクリーンも平面なわけで、平面から記憶を遡っていく物語を紡ぐにあたり、全てが虚構であると開き直って、張りぼてから始める。そこからだったらどこまでも飛べると言いますか。自由を得るために嘘を露呈させるっていう意識はあるかもしれません」
――――この映画では、映画が音を持つという契機を1つの重要な区切りとして描いています。トーキーになって一つの映画文化は終わったけれど、同時に新しいスタートを切ったとも言える。ラストの斉藤陽一郎さん演じる樋口さんのセリフにも繋がる歴史認識です。終わりと始まり、切断の繰り返しによって歴史を描いているという印象を受けました。
「青山版の脚本を最初に読んだ時の印象がまさにそれで。終わりを迎える映画館の話なわけですが、単純に描けば、終わって悲しいねと、ノスタルジーに流れる方向に行きがちなんですけど、そうではなくて、出来事の終焉や死があらゆるものと平等に描かれている。
普通の映画だったら、誰かが死ぬことで物語のピークが形成されて、余韻が生まれるという作りをすると思うんですけど、そうじゃない。戦争も含めて、すべての出来事が平等に、淡々と語られているところが面白いなと思ったんです。終わりに向かっていく話なんですけど、お客さんには見終わった後に『ここから始まるんだ』と感じてもらいたいと最初から考えていました」
―――劇中でも言及されていますが、峯田さん演じるハジメの活弁が上手くないのが良いですよね。つまり、ギクシャクしていて映像と調和していない。音声と映像が乖離し、別の持続を生きるという事態はこの映画全体にも言えることだと思います。
「録音技師の菊池信之さんは、青山真治監督作品はもちろん、僕の過去作(『はるねこ』『はだかのゆめ』)も担当してくださった方ですが、音は音で別の物語を紡いで一本筋を作ると、準備段階から話していました。先ほどお話ししたように、映像はパートごとに視点がどんどん変わっていくわけですが、その中でもハジメが映画館に入っていく冒頭のアクションを、中盤で少年タクオが映画館に入っていくアクションで反復させたり、手を何度も撮ったりしていて」
―――背中を映したショットも被写体を変えて何度も反復されますね。
「はい。その全てを顔のように撮る。死も些細なことも平等に描くために、全部のカットを同じスタンスで撮るっていうのは心がけていて、映像の1本筋としてあったんです。音も菊池さんの中で、1本筋を通していて。
例えばこの映画では青森の海を捉えたファーストカットで響く波の音が、後のシーンで何度か反復されていて。サネオは青森から吉祥寺にやってくるわけですけど、故郷の海の音を思い返す瞬間は人生の中で何度かあったと思うんです。菊池さんはそのあたりを踏まえて、映像とは別軸で音のストーリーを作ってくださいました」