「最も変化が起きているのはタイ映画」大阪アジアン映画祭プロデューサー・暉峻創三が語る映画祭の役割とは? 【後編】

text by 加賀谷健

大阪アジアン映画祭のプロデューサーを務める暉峻創三さんにインタビューを敢行。黒沢清監督との交流、エドワード・ヤン、ウォン・カーウァイを同時代に発見した驚きなど、キャリアを振り返っていただきながら、大阪万博に連動して開催される今年2回目となる大阪アジアン映画祭の展望を語っていただいた。(取材・文:加賀谷健)

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【著者プロフィール:加賀谷健】

コラムニスト / アジア映画配給・宣伝プロデューサー / クラシック音楽監修

クラシック音楽を専門とする音楽プロダクションで、企画・プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメン研究」をテーマに、“イケメン・サーチャー”として、コラムを執筆。 女子SPA!「私的イケメン俳優を求めて」連載、リアルサウンド等に寄稿の他、CMやイベント、映画のクラシック音楽監修、解説番組出演、映像制作、 テレビドラマ脚本のプロットライターなど。

2025年から、アジア映画の配給と宣伝プロデュースを手がけている。
日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。

「初めて知った映画祭」で入選した者同士の関係性

暉峻創三 写真:武馬怜子
暉峻創三 写真:武馬怜子

――第14回大阪アジアン映画祭では、パン・ホーチョン監督作『ハッピーパッポー』などが上映された香港映画特集が組まれました。香港政府からの助成など、財源が一つの場所に縛られない映画祭の独立性を考えてこられたと思います。さらに香港映画は暉峻さんにとって特に思い入れがあるものかと思います。ここからは暉峻さんの映画人生、その遍歴を伺います。まず今年で公開から40周年になる『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)の話題からです。“テルオカ君”という役名での出演他、美術助手でクレジットされています。

暉峻創三(以下、暉峻)「今や黒沢清監督は世界的名声を得た映画監督ですが、当時は8ミリ映画から商業映画に軸足を移す時代でした。黒沢監督にとって劇場映画第2作である『ドレミファ娘の血は騒ぐ』に僕と塩田明彦さんが監督から指名される形で美術助手で入りました。通常、美術助手は美術監督から指名される弟子のような存在ですが、あえてその存在を飛び越すという(笑)。それは自主制作的な環境を意図的に取り入れようとしたからだと思います」

――助監督に佐々木浩久監督、エキストラに篠崎誠監督が入っています。

暉峻「脚本は万田邦敏さんが書いています。さらに伊丹十三監督が出演するという豪華な顔ぶれです」

――劇中、ヨハネス・ブラームスが頻出します。ブラームスのレコードは、美術助手である暉峻さんの私物だったということですが。

暉峻「ブラームス関係は僕の私物でした。撮影で使われたレコードは家の押し入れにしまってあると思います。当時の黒沢監督は、全てを管理するわけではなく、監督に相談せず作った美術がそれなりに写っています」

――暉峻さんは1984年に『ブラームスを愛する』という監督作を撮っていますね。

暉峻「ブラームスがマイブームでしたから、あらゆるところに名前が出てくるんだと思います(笑)。1982年に制作した『革命前夜』は第6回ぴあフィルムフェスティバル(PFF)に入選しました。PFFは、その頃からしっかりとした土台があり、自主映画の祭典の最高峰的立ち位置でした。入選した年は違いますが、黒沢さんや塩田さんも当然応募していました。

初めて知った映画祭というと案外、PFFだったかもしれません。僕らの世代は、PFFという場で繋がったところがあります。入選した者同士はお互いに仲良くなれるものです。映画祭が人と人を出会わせる重要な場所という意味では未だに大阪アジアン映画祭に引き継がれています。とはいえ、黒沢さんとそもそもの出会いはいつだったのか……」

――黒沢監督や万田監督、塩田監督が所属した立教大学のパロディアス・ユニティ、早稲田大学の映画研究会など、8ミリ映画の上映会を行き来しているうちに自然と仲良くなったのでしょうか?

暉峻「そうかもしれません。例えば、8ミリ映画を作っている人や映画狂が集まるアテネ・フランセ文化センターや日仏学院、フィルムセンターなどが日々の行動の場所であり、基本的な人脈を作る根本にありました。当然DVDやネット配信などない時代ですから「ここで絶対観ないと」という危機感を持って集まっていました」

――『オレンジロード急行』(1978)の大森一樹監督や『狂い咲きサンダーロード』(1980)の石井岳龍監督が劇場デビューする時代ですが、一方で、撮影所システムが崩壊していた日本映画の時代的状況があります。

暉峻「現場に入って助監督になろうとした人は少なくなり始め、日本映画は悲惨な状況でどん底の時代でした。もしかしたら産業として消えるかもしれない。それくらい萎んでいました。現在の日本映画界とは完全に逆で圧倒的に洋画の方がマーケットとしては大きい。そういう中、アテネ・フランセや日仏学院では、外国映画を観るわけです。

これも今との大きな違いですが、むしろ映画監督よりも映画評論家の方がはるかに格好よく、偉そうに見えた時代です。日本映画より映画評論の方が世界を動かしていました。具体的にはもちろん蓮實重彦が大活躍して影響力を持ち始めた時代です。僕の場合も映画評論を書いて学生時代から雑誌に掲載されていました」

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