長崎の「手触り」を描く
主要な舞台の一つとなる戦後間もない長崎について、石川監督は「できれば長崎で撮影したかった」と振り返る。しかし、街並みの変化により、CGを駆使しなければならない状況となり、最終的に別の場所で撮影を敢行。それでも「長崎の地形や雰囲気は大切にしたかった」と語る。
「長崎は坂道が多く、入り組んだ港町。実際に歩くと『ここに原爆が落ちたのか』と肌で感じる瞬間があるんです。カズオさんの生家や城山といった場所も巡り、原作の描く長崎の“手触り”を強く実感しました。
多くの映画では“焼け野原の長崎”が印象的に描かれますが、1962年当時の長崎は復興し、駅周辺には洋裁店やキャバレーが並び、音楽を楽しむ人々があふれていた。原爆の影は消えませんが、その中で力強く生きる人々の姿を描きたいと思いました」
一方、原作者カズオ・イシグロは、映画化に際し、「語り手の視点」の処理が最大の課題だったと語る。
「原作は悦子の内面を一人称で描いていますが、石川監督は娘のニキ(カミラ・アイコ)を視点軸にすることで、観客が自然に悦子の内面へ入っていける構成にしました。
ニキが問いかけ、悦子が徐々に、時に曖昧な形で語る。その構造が“信頼できない語り手”という原作の本質を、映画ならではの手法で見事に表現していました。非常に難しい要素を巧みに映像化した石川監督の手腕に、私は深く感銘を受けました」