政策の陰で切り捨てられる声
ドイツのフライブルク市はコンパクトシティ化を推進したことで深刻な大気汚染を解決し、環境先進都市となった。富山県富山市や青森県青森市でもコンパクトシティ化により人口が増加、地価や税収が上昇している。政策としては悪いものではないが、そこには限界集落をどうしていくかという大きな課題が残る。
その限界集落で故郷の未来を憂いている滝井元之さんだ。町の中心部から離れた三世帯だけの集落で妻・順子さんと暮らしている滝井さんは手書きの新聞「紡ぐ」を通じて、吉村町長と彼のイエスマンである10人の町会議員に異を唱え続けてきた。
「攻撃される怖れはあるが、言い続けることに意味がある」
地元の有力者で町会議員だった吉村氏が無投票で当選したことからも分かるように町長の批判は「穴水町最大のタブー」なのだという。それでも「何もしなけれは何も変わらない」と警笛を鳴らし続ける滝井さんの孤高さは「どうせ何も変わらない」と諦観し、天下りや利益の分配が公然と蔓延る権力社会を見過ごしているわたしたちに「目を覚ませ」と訴えているようでもある。
印象的なのが本作のサブタイトルにも思える、滝井さんが吉村町長について書いた記事の小見出しだ。
「裸の王様」
ここまでだけでもドキュメンタリー映画としてはかなり振り切った描き方だと感じた。町の権力者をヴィランに。そんな彼を住人は誰ひとり批判しない。忖度が蔓延り、同調圧力に誰もが萎縮している。典型的な”ムラ社会”でペンを手に立ち上がる善良な市井の人。ヒーローの行動で町はどう再生していくのか。まるでディズニー映画のような王道ストーリーに思えてくるのだ。
しかも、制作しているのは石川テレビである。「報道の公平性」という言葉が何度も頭を掠めたが、そこに”ムラ社会”に染まり切っている自分自身の怖さを感じた。
「悪いものは悪い」
滝井さんもそうだが、五百旗頭幸男監督も権力を恐れて批判を自粛するよう表現者ではないのだと。