弱者と強者が反転するダイナミックな作劇―脚本の魅力―
本作には、従来の歴史ドラマでは描かれてこなかった「歴史上の弱者」たちが克明に描かれている。
まず、主人公のアシタカは、ヤマト政権の外部に暮らすいわゆる「蝦夷」だ。彼らは農耕民族であるヤマト民族とは異なり、狩猟や採集を生業として自然との共生を図ろうとする。アシタカがサンたちとエボシ御前たちの間に入りしきりに共生を促そうとするのも、こういった背景がある。
また、エボシたちによる環境破壊の被害者となっているサンやモロたちも、作中では弱い存在だ。物語の中盤、乙事主がモロに述べる「ワシの一族も小さくバカになってしまった」というセリフは、彼らが決して超越的な存在ではないことを端的に示している。
とはいえ、サンたちを脅かすタタラ場の人々が絶対的な強者というわけではない。例えば、タタラ場の技術部門を担う石火矢衆は、「業病」と言われ長年差別を受け続けたハンセン氏病の人々をモチーフにしているとされている。また、平六たち牛飼いも、社会的に差別を受け続けた社会的弱者だ。つまり本作では、立場と力によって、弱者と強者がコロコロと反転するのだ。
この構造がより顕在化するのが本作のラストだろう。このシーンでは、アシタカがサンと決別し、タタラ場で生きることを決意する。つまりアシタカはこの瞬間、自分が蝦夷である以前に、業を背負った「人間」であることを自覚したのだ。このあたりの「泥臭さ」は、特別な力で自然との宥和を図ろうとする『風の谷のナウシカ』にはなかった視点といえるだろう。
一方、文明対自然の調停不可能な戦いを描く本作には、どこか超然としたあり方で、物事の推移を見守るキャラクターが登場する。それは、白い小人「こだま」である。
こだまは物語に参加することなく、わらわらと群れて集まっては、対立構造から外れたポジションでシーンに立ち会う。その点だけ見ると、彼らは観客のまなざしを表象しているように思える。しかし、漢字で表すと「木霊」となるこのキャラクターが、自然の側に立っていることは言うまでもないだろう。しかし、彼らはサンやモロと違って言葉や身振りで怒りを表出するこはなく、カラカラと不思議な音を立てて首を振るだけだ。
不毛な対立を憂いているのか、うんざりしているのか。こだまの感情を推し量ることは誰にもできない。だからこそ、「物言わぬ自然」という、我々観客にとっておそらく最も身近な自然観を、さりげなく表現しているキャラクターである、とは言えるのではないだろうか。
なお、本作の世界観は民俗学者の網野善彦の著作が元となっている。気になった方は、網野の著書をチェックしてみてもいいかもしれない。