本家の初代『ゴジラ』の物語
この事件は、ゴジラのプロデューサーを務めた田中友幸にインスピレーションを与えることになる。
映画史家スティーブ・ライフルの『Japan’s Favorite Mon-star The Unauthorized Biography of “The Big G”』によれば、本企画の当初のタイトルは、『海底二万里からきた大怪獣(仮題)』。日本初の怪獣映画を考えていた田中による肝入りの企画で、1954年4月にエグゼクティブ・プロデューサーから承認を受けている。
しかし、当時SF映画はチープな作品というイメージが強く、監督探しは難航。最終的に、『青い真珠』(1951)でデビューした本多猪四郎に白羽の矢が立った。
今や災害映画として認識されている『ゴジラ』。本作には、当時の日本人の核へのジレンマが反映されている。
象徴的なのは、ゴジラの正体を突き止めた山根教授(志村喬)と主人公・尾形秀人(宝田明)の論争シーンだろう。山根は、水爆の洗礼から生き残ったゴジラは人類の生存の鍵であり、研究対処にすべきだという。
これに対して尾形は、「日本人の上に覆いかぶさっている水爆そのものではありませんか」と反論するが、山根は「それなら、被爆をうけながら、なおかつ生きている生命の秘密をなぜ解こうとしないのか」と返す。
また、東京がゴジラに蹂躙されるシーンでは、電車の乗客たちが口々に「いやね、原子マグロだ、放射能雨だ。その上、今度はゴジラと来たわ」「せっかく長崎の原爆から命拾いして来た大切な体なんだもの」と話す。混沌と破壊が入り混ざるドラマチックな映像の中、このシーンは特に殺伐としたシーンに仕上がっている。