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「日常は何でもアリ」
群青いろの2人が演出する上で心がけていること

©群⻘いろ2022
©群⻘いろ2022

 

―――本作では、ルポライターの記者によって事象が捏造されたことをきっかけに、それぞれの人生が壊されていく様子が描かています。『真実はそもそも捻じ曲げられて伝わる。だったら面白く提供すればいい』という劇中のセリフが印象的です。元々あった事柄が違う形に変質してしまう。問題の本質はどこにあると思いますか?

髙橋「僕らって、そもそも自分以外の人を切り取りの世界でしか見ていないので、例えば夫婦喧嘩の相談をされて、『それは奥さんが悪いよ』とか、『旦那さんが悪い』とかそういう話になるじゃないですか。でも厳密にはそれぞれのバックボーンや、その言葉が発せられたタイミングなど、日常の情報を全部収集しないと、ちゃんとジャッジすることなんて不可能じゃないですか。

切り取られた部分を集めて、第三者の興味が膨らむように並べることで事実が捻じ曲がって伝わっていくと僕は思いますね。ただし、映画を通して何かを批判したいというわけではないのです。自分にもそういう部分があるからこそ、撮りたいと思うんですよね」

―――髙橋さんが普段感じていらっしゃるだろう葛藤や消化しきれないものが、作品に全面的に反映されていると感じたので、すごく腑に落ちました。さて、廣末さんは映画監督としての顔もお持ちです。映画後半に『これ過剰演出だったかな?』というセリフがありましたが、お2人は、“人を演出する”ことについて、どのように考えていらっしゃいますか?

廣末「基本的に日常ベースで考えることが多いんですけど、日常は何でもアリじゃないですか。でも、お芝居とか映画になると『それはやりすぎだ』と指摘されたりする。

確かに、過剰な演技は、虚構の上にさらに虚構を塗り重ねるようで嫌なんですけど、日常を表現する上で『やりすぎ』はないと思っています。

でもそれを表現するのは、恥ずかしいし、勇気がいること。監督をやる上ではそうした部分を出してもらうために、出来るだけ役者さんと信頼関係を築くことを心がけています」

髙橋「僕は現場では演出しないんですよ。脚本に演出が内包されていると思っているんです。例えば去りながらセリフを言うのか、セリフを言っても去らないのか。両者がもたらす印象は大きく異なりますよね。

僕はそのような美学を脚本の中に詰め込む。そして演じる方は、そういう小さな美学の積み重ねを読み取って、役を用意してくれるのかなと思います」

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