「素人であること」作品づくりに対する心構え
―――今まで様々な作品をお撮りになられていますが、今回のような撮影方法は初めてとのことで、ある種のチャンレンジですよね。そこに至るまでにどのような想いがあったのでしょうか?
「明らかにコロナが与えた影響は物凄く大きかったですね。コロナ以前は、ご存じのようにドラマや映画をやって、ヒットしたりヒットしなかったり、ある種演出家なんてギャンブラーみたいなものなので、いい企画に当たっていい結果が残せればみんなハッピーだなと思いながらやっていましたけど、それがコロナで強制的に色んなことが閉じられてしまった。舞台も映画もドラマも。
そこで『萎れてるんじゃねぇよ、立ち上がれ』って言ったのはインディーズの女優たちや役者たちで、文化庁から支援金を得て、本当に低予算で『Truth ~姦しき弔いの果て~』という佐藤二郎に3股を掛けられる女性3人のインディーズ映画を作ったんですけど、僕は海外で賞なんか取ったことないのに、8個ぐらい受賞してちょっとびっくりしまして…。
それまでの映像、映画、ドラマは“こうじゃなくてはならない”という枷を1回外すべきだと思ったんです。そこからドイツの方々と共作でダンスムービーを作ったり、その中でこの『SINGULA』も生まれて。普通だったらチョイスしない選択が今後の未来に必要なんじゃないかと。
本作は容易にカテゴライズできない不気味なカルチャーとして成立する作品になった気がするんです。そういうものが出来たこと自体とても嬉しいし、これ以降に作った映画も5、6本ありますけど、全部方向が違っていて、やっぱり全てコロナが『リセットせよ』と言った結果ですね」
―――本作は、まさに“時代の当たり前”を覆しており、そこに異議を申し立てているようにも感じました。
「とても難解だと思うんですね。そもそも英語ですからね。僕も英語圏ではないので喋ることは出来ないんですけど、だからこそちょっと言いたいことを言えるというか。あるいは日本の映画的セオリーそのものを完全に無視してるというか。そういう風に見えてるんじゃないかなという風に思います」
―――本当にそうだと思います。堤監督は、例えばテレビドラマがスタジオで撮影されることが通例とされていた中、ロケ撮影を敢行したり、それこそこれまでも業界にある常識を覆す取り組みをされているように思います。本作を含め、作品を作る上でどのような意識をされていますか?
「結論から言うと、素人であることだと思うんですよね。やっぱりプロであることで得なことはいっぱいあるけど、ゼロに戻れないのは、その段階でその手法は終わってるかなと思っています。
僕はフランスの映画監督ルイ・マルの作風に凄く共感が出来るんですけど、それは20代のデビュー作『死刑台のエレベーター』というサスペンスがあり、それから観るだけで自殺してしまいたくなるような重たい作品もあり、かと思えば『地下鉄のザジ』というバカみたいなコメディーもあり。『死刑台のエレベーター』で当たったからサスペンスを延々と撮り続けるわけじゃないですよね。そうやって常に初期化して、1回発想を戻して作るというのは、それなりに成果を出すとなかなかできない。
『ケイゾク』は『金田一』の延長線上にあって、それから『SPEC』『トリック』の流れは、正直言うと主人公の形があって、焼き回し的なところがあるじゃないですか。そこで図に乗ってしまうとその先はないので、そういうことも一切忘れることが大事なんじゃないかなと思います。
だから常日頃これが仕事としてメインストリームになるんだぞということは一切ないという風に思っていて、何が自分にフィットするかなんて分からないし、それは作品と社会がフィットすることもそうだし、法則はないんだっていうことですね。だからとんでもなくギャンブルに近いものがありますね」
―――だからこそ観たことのない新しい作品を作ることが出来るんですね。昨今ではコンプライアンスの問題で、以前と製作形態が変わってきていると思います。
「最近は契約が先行して仕事として成立していきますが、かつては一言思いつきで言ったことにみんなが乗っかり、その結果、億単位のお金が必要となる。そんな場合がしょっちゅうあった。言ってしまえば、予算をどう回収するのかも考えずにほぼギャンブルでやってることが多いブラックな産業だったわけです。もちろんそれは変えていかなきゃいけないし、僕自身も思いつきの世界観を表現するための方法論をちゃんと提示すべきだなという風に思っています」