「見えない人々」の眼差しで社会の欺瞞を撃つ〜脚本の魅力
本作には、非対称な「のぞき見」の構造が頻出する。例えば冒頭のスーパーのシーンでは、治と祥太が店員の目を盗んで万引きを行うが、店員は彼らの悪事に気づかない。その後、帰り道に治はアパートの目隠し用の隙間からりんに声をかけるが、りんの両親は彼らの存在に気づかない。
彼らの悪事が気づかれないのは、彼らが「犯罪のプロ」だからだろうか。いや、そうは思えない。むしろ社会の人々には、明らかに彼らの存在が見えていない(彼らの悪事に気づくのは、彼らの境遇をおもんばかる駄菓子屋の店主だけである)。
さて、そんな彼らが世間の目に晒される瞬間が二度ある。一度目は亜紀がJKリフレで働いている時、そして二度目は彼らの悪事が発覚し、警察に捕まる時である。
しかしこのときも、彼らはありのままの彼らとして見られない。JKリフレ店で働く亜紀は「さやか」(亜紀の実の妹の名であることが皮肉である)として、そして悪事が発覚した治と信代は「犯罪者」として見られる。
しかもJKリフレ店で働く亜紀は、客のことを見返すことができないし、悪事が発覚して夜逃げを試みる治と信代には強い白熱灯が焚かれ、世間の好奇の目に晒される。
家族や社会の絆が崩壊し、他者への関心が希薄になっている現代社会。本作の脚本からは、そんな“無縁社会”への強い警鐘が感じ取れる。