「観察映画によって得られるのは知識ではなく体験」
猫の向こうに人間が見えてくる。猫たちが見ている人間の姿が見えてくる。利己的だけれど、倫理や道徳心で利他的にもなれる。そんな人間の正体のようなものが朧気ながら見えてくる。それは映画を観ている私たち自身でもある。
というのはあくまで筆者の私見に過ぎない。本作には情報性もなければ問題提起もない。TNRの是非も、排除か共存かというような二者択一も、偏った主張もない。ただひたすらに牛窓で生きる人々の、そして猫たちの、今日という一日一日が積み重ねられていく。まるで今という積み木をひたすら重ねていくことが人生そのものであるかのように。
目の前で起きていることを見つめ続けるうちに私は移住者のひとりとして牛窓での暮らしを疑似体験しているような気分になっていた。後に読んだ想田監督が観察映画について書いた文章にも綴られていた。
「観察映画によって得られるのは知識ではなく体験なのだ」と。
それは”わかりやすさ”を追求した日本のテレビ文化とは対極にある表現でもある。観客は”ながら見”のような受動的な鑑賞ではなく、能動的に「観る」ことを求められる。その行為は下調べやガイドなしで森の中を歩くことに似ている。目に映る森は単なる木々の集合体に過ぎない。その木陰に息づく多様な生命に目を懲らし、与え合って共存共生している彼らの営みを観察しなければ何も見えて来ないのと同じように。
だからといって、構える必要はない。先入観も偏見も捨てて「よく観る」うちにきっとその人なりの気づきがある。発見がある。それは誰よりも「よく観る」ことに真摯に取り組んでいる想田監督自身の気づきが映画の中に幾つも織り込まれているからではないだろうか。テーマもない。下調べもしない。台本も作らない。そんな方法論で映画を紡ぐのは他ならぬ監督自身が予定調和ではない着地点を欲しているからではないだろうか。