親子の絆と揺れるアイデンティティの物語
幼い大は聞こえない母を積極的にサポートするようになる。背後から近づく自動車のエンジン音が母の耳には届かない。小さな手で母を引っ張り、危険を知らせる。買い物先では母とは手話、店主とは発話で通訳としての役目を果たそうとする。
小さな献身に水を差すのは「社会の目」だ。
生まれつき聞こえない、すなわち音を知らない母は発声こそできるが正確な日本語を話すことができない。当時は違いを認め合う共生社会にはほど遠かったのだろう。大は想像力の欠片もない言葉を次々に浴びる。社会の目によって”きこえない母”が「ふつう」ではないのではないかという懐疑と葛藤が大の心に黒い染みとなって広がっていくのがわかる。
母を喜ばせたいという健気さ。母を疎ましいと感じてしまう物悲しさ。それは多くの人に心当たりがあるものではないだろうか。容姿や年齢を友達に蔑まれたり、友達の家に出入りするようになって急に母親を見窄らしいと感じるようになったあの日の情けなさと罪悪感。
呉監督も原作に触れた感触を「自分自身の家族へのいつかの懺悔が一気に蘇り、これはマイノリティには留まらない、大いなるアイデンティティの物語だと、強く思いました」とコメントしている。
本作はコーダという存在が特別なものではないことを逆説的に気づかせてくれる。”きこえない母”と”きこえる子”でありながら、描かれているものの本質は普遍的な親子の苦悩であるからだ。
たとえば「ビートルズを知る為にビートルズを聴くのではなく、自分を知る為にビートルズを聴く」(早川義夫・シンガーソングライター)のと同じように、映画が他者ではなく自分を知る為に観るものであることを改めて思い出させてくれる。