定義をすり抜ける「いい顔」
また、この「聞く=他者へと開く」ことには、観客である私たち自身も無関係ではいられない。象徴的なのが木立を真下から映したオープニングの移動ショットだろう。
約4分間に渡り続くこのショットでは、スクリーンに映った木立を見つめるうちに、抽象的な木立の線が水の流れなど他のものに見えてくる。スクリーンを凝視する中で、観客自身の認識が錯綜してくるのだ。
筆者はこのシーンから、即座に『ドライブ・マイ・カー』(2021)の高速道路のシーンを連想した。このシーンでは、夜の首都高のライトの中、劇作家の主人公・家福(西島秀俊)と、俳優の高槻(岡田将生)の顔が相互に映し出される。高槻の「空っぽなんです、ぼくには何もないんです」というセリフも相まって、2人の顔がなにかおぞましいものに変貌していくように感じられるのだ。
濱口竜介は、『何食わぬ顔』(2003)以来、一貫して「顔」を追求してきた作家でもある。
「一点つかんでいたのは、状況の中で違和感を示す顔、真実を告白するような顔のありようですね。それを目指した。(…)それは別に美醜とは関係ない。『意義深い顔』と言うか、そもそもそのように見える顔の造形というのはある気がします。それを『いい顔』と呼んでいるし、そういう顔を選びます」(※)
また濱口は、「いい顔」を「定義することができない何かに人がなっているときの表情」と喝破し、私淑するアメリカインディペンデント映画の父ジョン・カサヴェテスと自身を次のようにつなげる。
「カサヴェテスが撮る『顔』は特定の感情を意味するものとして撮っているわけではないですよね。たとえば会話を聞いている顔を映すにしても、その顔は何かを感じていることは分かるのだけど、会話の流れに完全に同調している表情でもなかったりする。(…)映し出されたそのときには何を思っている表情なのかが分からない『顔』がそこに浮かんでいるというカサヴェテスの映画が、僕がやっていることのモデルとして一つあると思います」(※2)
一般的に「顔」は、表情を通して他者の感情を理解するための装置と見なされることが多い、一方、濱口作品における「顔」は、表現できないものを表現するための装置として、つまり、他者の理解不可能性を表象する装置として働いている。いわば、濱口作品の登場人物は、「アクリル板」の向こう側に閉ざされているのだ。
そして、ここで観客である私たちに要求されるのが、先にも述べた通り、「聞く」態度だ。観客である私たちは、スクリーンに「目を澄ませ」、自らを打ち開くことにより、スクリーンに映っている「顔=意味」を不断に問い直すことを余儀なくされる。濱口作品では、いわばこの「目で聞く」態度が、固有の映画的経験を生んでいるのだ。
(※)近藤多聞「『THE DEPTHS』『親密さ』などを手がけた濱口竜介監督の映画観に迫る。「キャラクターの身体をふまえた台詞」とは」『東大新聞オンライン』、2015年7月15日
(※2)伊藤元晴、佐久間義貴、山下研「濱口竜介インタビュー(連載「新時代の映像作家たち)」『エクリヲ』、2018年9月3日