圧倒的な他者としての匠
しかし、本作には、観客の「目で聞く」ことを頑なに拒絶する他者が登場する。それが、主人公である匠だ。
演者である大美賀均は、元々濱口監督のスタッフを務めていた人物だ。大美賀によると彼は、本作のシナリオが完成した時点で、突如濱口から出演を持ちかけられたという。裏方から突如主演に抜擢するというのはかなり異例だが濱口自身は彼の「何を考えているのか分からない、よい顔」に惹かれたのだという。
さて、そんな大美賀が演じる匠は、どこか人と相容れないものを持っている。グランピング場の説明会でも、感情をあらわにする町人たちに対して、訥々と自らの考えを並べ立てる。あまりにもそっけない彼の言動は、高橋と黛が近づいてきても一向に変わらない。
注目は、匠が「自然そのもの」として描かれているという点だろう。彼が高橋・黛とともに川の水くみをしにいくシーンでは、匠が、シカは臆病で手負いでないと人間に危害を加えない、と述べるが、これはラストで彼自身が取る行動とパラレルな関係になっている。つまり、彼は人間が足を踏み入れられない原野そのものなのだ。
なお、本作では、匠が車を運転する様子を「後部座席目線」で捉えたり、山中でシカの骨を見つけた黛を「シカの骨目線」で写したりと、あちこちに「モノ目線」の映像が登場する。こういった不可解なカッティングは、濱口がかつて人の顔に見出していた「定義できない何か」を、世界そのものに見出そうとする試みと言えるかもしれない。そして、それは濱口の師匠にあたる黒沢清が述べる「映画の外側」とも無関係ではないだろう。
「編集作業によってあるカットとあるカットが分断されたとき、そこにどうしても感じてしまうインチキ臭さ、非現実感というものがある。(…)そういう瞬間に出くわすと、今見ている映画の外側に、隠された全然別のもう一本の見てはいけない映画が、ぴったりと寄り添うように存在しているのではないか、という感覚に襲われるのです。『不意に露呈する外側』。これこそが、二一世紀の映画にときおり、というかますますはっきり色濃く立ち込めつつあるような気がしてならないのです」(※)
(※)黒沢清『黒沢清、21世紀の映画を語る』boid、2010年、p.285-286