匠がはらむ暴力の両義性
さて、この匠の行為について、もう少し掘り下げて考えてみたい。ご登場いただくのは、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンだ。彼は、1921年に発表した『暴力批判論』という論考で、「神話的暴力」と「神的暴力」という2つの暴力を提示している。
まず、「神話的暴力」とは、法権力が自らの権力の正当性を維持するために行使する暴力を差し、具体的には警察や司法が当てはまる。一方「神的暴力」とは、法の外側にある正義を遂行するためになされる行為を指している。
「神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は境界を認めない。前者が罪を作りあがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である」(※)
この暴力論をもとに改めてラストの匠の行動を分析してみよう。まず、彼の行動は、他者を守るために法律を犯しているという点で「神的暴力」に該当する。しかし、同時に「神話的暴力」でもある。なぜなら、匠は、暴力を行使することにより、自然と人間の境界線(=法)を維持しているからだ。
つまり、彼の行為は両義性をはらんでいるのだ。そしてこの事実は、彼が「映画の外側」であり、かつ自然と人間の「境界人(マージナルマン)」であることを示している。
なお、作中では、この一連の匠の行動が、極めて謎めいたカッティングで提示されることになる。つまり本作は、黒沢が述べた「不意に露呈する外側」を、断絶によって表象しているのだ。
『悪は存在しない』。それは、「映画の外側」を表現する映画であるとともに、映画という法制度を侵犯する「神的暴力」そのものなのかもしれない。
(※)ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論 他十編 ベンヤミンの仕事1』野村修編訳、岩波文庫、1994年、p.59
(文・司馬宙)
【作品概要】
大美賀均 西川玲
小坂竜士 渋谷采郁 菊池葉月 三浦博之 鳥井雄人
山村崇子 長尾卓磨 宮田佳典 / 田村泰二郎
監督・脚本:濱口竜介 音楽:石橋英子
製作:NEOPA / fictive プロデューサー:高田聡
撮影:北川喜雄 録音・整音:松野泉 美術:布部雅人
助監督:遠藤薫 制作:石井智久 編集:濱口竜介 山崎梓 カラリスト:小林亮太
企画:石橋英子 濱口竜介 エグゼクティブプロデューサー:原田将 徳山勝巳
配給:Incline 配給協力:コピアポア・フィルム 宣伝:uhuru films
2023年/106分/日本/カラー/1.66:1/5.1ch
© 2023 NEOPA / Fictive