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「音楽の前ではみんな平等」
空虚な男を演じた森田剛の演技に息を飲む

「白鍵と黒鍵の間に」
Ⓒ2023 南博小学館白鍵と黒鍵の間に製作委員会

『白鍵と黒鍵の間に』というタイトルをなぞるように、博と南を演じ分けた池松壮亮。そしてピアニストを演じるため、半年間もピアノを猛特訓して本作に挑んだ。

2人の男を演じ分けるため、歩き方含め様々なことを冨永昌敬監督と相談したそうだが、冨永昌敬監督は演技については指定していないそうだ。

博を演じる時の池松は、目を大きく見開きピアノにまっすぐに向かう青年である一方で、南を演じている時の池松は、大人の色気が漂っている。

黒のスーツを身にまとい、背筋をピンと伸ばし、長い足をシャキシャキと動かす様子に惚れ惚れしてしまう。髪をオールバックに撫で付けたヘアスタイルは、ジャズ史に残る名ピアニスト、ビル・エヴァンスの真似だそうだ。

だが、2人の男の心はピアノに一直線であり、その純粋さが博と南のどちらにも透けて見えており、それが可愛らしく人間味を感じさせている。

そしてピアノを弾くシーンでは、本当に池松が演奏しており臨場感たっぷりだ。演奏している時の顔や目の動き、そして手の震えにゾクゾクさせられる。

監督が表現したかったジャズへの愛が、池松を通してそのまま伝わってくるようでシンパシーを感じる。

そして、“あいつ”を演じた森田剛だが、彼が画角に入った瞬間、一瞬で全ての空気が凍りつくような印象を受けた。

刑務所帰りの“あいつ”は、空っぽの心の持ち主であり、音楽だけが唯一の救いである。音楽への渇きがイラつきのようにも映り、喜びのようでもあり、無垢なまなざしで“あの曲”を求める様子はどこか狂気じみており、観ていてゾッとする。

「音楽の前ではみんな平等である」というセリフには、あの曲が誰の曲であるかを知っていながら、ただ純粋に音楽を求める気持ちがにじみ出ており、まるで子供のようにも見える。

砂漠で一滴の水を求めるような、その空虚と渇きを表現できるのは森田剛しかいない。そう思わせるほどのはまり役である。

また、池松壮亮と森田剛の芝居のセッションにも注目。

普段はシリアスな芝居を得意とする2人が掛け合わさると、不思議な方程式のように全く予想できない雰囲気が出来上がった。博と“あいつ”がお互いの足をベルトで固定して二人三脚をするシーンでは、いびつなようで違和感を感じさせない、お互いがお互いを包み込んでいるかのような印象を受けた。

そして三木を演じた高橋和也も、軽やかでありながらも渋さを感じさせる“いいおっちゃん”といったような憎めないキャラクターを好演。

千香役の仲里依紗も、自身のYouTubeチャンネルで見せるような天真爛漫な雰囲気を封印し、夜の街で生きてきた大人の女性を感じさせる芝居が見事。一つ、彼女のアップのシーンがとても印象に残った。

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