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タイトルに込められたメッセージ
ただ一つの物事を失った者が行き着く先とは

「白鍵と黒鍵の間に」
Ⓒ2023 南博小学館白鍵と黒鍵の間に製作委員会

本作には何重にもメッセージが込められていると感じた。

『白鍵と黒鍵の間に』というタイトルなぞらえて、まだ何にも染まっていない白の“博”と、夜の銀座にどっぷり浸かった黒の“南”。そしてラストシーンでビルとビルの間の空間に落ちていった南のように、人生にも隙間がある。

その隙間には池松が演じる浮浪者の姿があり、南が言う「ピアノがなかったら飯食ってクソして寝るだけの人生だ」という自らの叫びを再現している。

白鍵と黒鍵の間には絶望が待ち受けている。他人からしてみれば、音楽を失ったくらいで人生が終わるわけがないと思うところだろうが、本人からしてみれば、そうした考え方をする者は、熊野会長やあいつと同じように「死んでいるのと同じ」である。

それくらい、このセリフには物語の全てが詰まっている。そして、心から好きなことに熱中している人の想いが凝縮している。

また、“ノンシャラント”という言葉もキーワードの一つ。佐野史郎演じる宅見先生が、教え子である博の演奏を評したこの言葉は、直訳すると「平然とした」あるいは「のほほんとした」となる。

要するに宅見先生は、博の演奏に“遊びが足りない”ということを指摘しており、後のシーンで博は、サックス奏者のK助(松丸契)と路上セッションをすることでやっとその言葉の意味を知ったように見える。

ひたむきにピアノに向き合っている博と、いつの間にかピアノに閉じ込められた南。だが凝り固まった思考ではすぐに成長は頭打ちになる。何かを突き詰めるのには、同時に大事なものを捨てなければいけない。人生には上がっていくときもあれば、下がっていくときもある。そんな時、宅見先生の言う“ノンシャラント”という言葉の真の意味を理解できるのではないだろうか。

本作は、観た者によってそれぞれ解釈が分かれるだろう。そして時空が交錯しているため、難しい部分も多々あるのが正直なところだ。

とはいえ、いたずらに難解なわけではない。役者たちの上質な芝居に目を奪われ、複雑な要素が絡まり合うサマに人生の不思議さが香り立つ。音楽好きだけでなく、何かに夢中になっている人、生きる上で何かヒントを得たいという人にぜひおすすめしたい。

(文・野原まりこ)

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