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「メディウムとしてのジャンル」の発想に貫かれた一本

©JOKER FILMS INC.
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 関連してスタンリー・カヴェルは、論文「テレビという事実」において「伝統的にジャンル映画と呼ばれているもの」、すなわち「あるグループを構成する映画の一員(メンバー)であることに何の疑いもない映画」を規定するジャンルについての考え方を<サイクルとしてのジャンル>と名付けた。

 そして、要件や属性を共有する類似した作品を集めることで成立するこうしたジャンル観と対比する形で、自身が『幸福の追求 ハリウッドの再婚喜劇』(1981)でスクリューボール・コメディ作品から七本を選び出して名付けた新たなジャンル、「再婚喜劇」を規定する発想を<メディウムとしてのジャンル>と呼び、両者を明確に区別した。 ※4

 この<メディウムとしてのジャンル>は、要素の共有ではなく、各々に欠けている諸特性を他の作品が補償する点にこそ眼目がある。この視点に立つとき、たとえばある新たな作品を再婚喜劇というジャンルに加えるということは、「作品を特定のジャンルとして同定することではなく、ジャンルの核そのものを問い直し、新たにそれを変容、拡大、生成することを企てる」、「批評的な行為となる」※5。

 もはやほとんど意識する者のいないスクリューボール・コメディやメロドラマの看板をあえて背負おうとする前田・高田コンビの身振りは、ここでカヴェルが強調するような批評性に満ちている。

 従来のジャンル観との整合性に関心を払う、<サイクルとしてのジャンル>の発想とは異なり、「リミックス」や「混合」に喩えられる彼らの姿勢は、「ジャンルの拡大や生成を企てる」<メディウムとしてのジャンル>の発想に貫かれていると言ってよいだろう。

 加えて、前掲の鼎談において本作に関連する視点でもう一つ重要なのが、スクリューボール=変人※6の位置である。高田は、近年の映画に変人たちの「記号性みたいなもの」を「退屈だと思って避けてしまうというか、リアリズムの平均的な所に落とし込む」傾向を見出す。

 だが、登場人物が「等身大に感じられるかどうか」(前田)が重視されるそうした状況を受けて彼は、「そうすると粒立たなくなって、もうスクリューボールは成り立たなくなったように感じられるけど、すごく細かくやっていけば、粒は立たせられる」という実感を口にする。

 「常識と繋がってないといけない」(高田)。「だけど、変わっていないと全然面白くない」(前田)。このジレンマは、過去作にとどまらず、明らかに『こいびとのみつけかた』の主人公二人の人物造形にも反映されている。続く後編では、具体的な物語や演出に触れつつ、ジャンルをめぐる諸問題を同作がどのように問い直し、更新したのかを確認しよう。

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※4 スタンリー・カヴェル「テレビという事実」堀潤之訳、『表象 15』月曜社、二〇二一年、五六―七頁。

※5 木原圭翔「スタンリー・カヴェル——メディウムを批評する哲学者」『映画論の冒険者たち』東京大学出版会、二〇二一年、二四二頁。またカヴェルは、『幸福の追求』の研究を発展させる過程で、もう一冊のジャンル映画論『涙の果て——知られざる女性のハリウッド・メロドラマ』(1996)を執筆し、同書で<メディウムとしてのジャンル>の発想を改めて取り上げつつメロドラマ映画を論じている。鼎談でも取り上げられた数本のスクリューボール・コメディ映画について熟考することで、カヴェルのなかで徐々にメロドラマへの関心が増していった過程は、偶然にも、本作製作に至った前田・高田らの軌跡と共通する部分が多い。

※6一九三〇年代にメジャーリーグを席巻した変化球の名称で、転じて変人・奇人をも意味する単語となった。

【後編に続く】

(文・冨塚亮平)

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