千尋の目から見た現代社会ー脚本の魅力
宮崎は本作の企画書で、本作の映画の主題がコンセプトについて「あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに、侵食し、喰い尽くそうとする世の中をファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すこと」だと述べている。では、本作の具体的にどこに、あいまいな世の中への批判があるのか。それを紐解くには、宮崎の次のインタビューが参考になる。
「いまの世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗営業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になっているじゃないですか。もはやカエル男とナメクジ女の国ですよ。映画の中では結局それなりに描いていますけど(笑)」(『PREMIERE 日本版』2001年9月号より)
誤解を恐れずに言えば、本作に登場する油屋はずばり風俗店なのだ。そう考えると、なぜ大浴場が仕切られているのか、そして、千尋の名前が「千」に変えられるのか、合点がいくことだろう。「神隠し」という本作の神秘的な設定の裏には、「大人の世界」に足を踏み入れた少女が源氏名を与えられ、「神々」の疲れを癒すというかなり露骨な設定が隠されているのだ。
こういった社会批判の象徴的な存在が、他ならぬカオナシだろう。他者の声を簒奪することでしか自身の声を語れない主体性の無さや、実体のない見せかけだけの金であらゆるものを手にしようとする汲めども尽きせぬ欲望は、現代社会を生きる私たちに特有の病なのかもしれない。
なお、宮崎は、前作の『もののけ姫』(1997年)の後、『煙突描きのリン』という作品の制作に取り組んでいた。本作は、銭湯を舞台とした作品で、煙突に絵を描く画学生リンが、東京を裏で操る巨悪と戦う作品になるはずだったという。しかし、『踊る大捜査線THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!』(1998年)を観た鈴木が、現代社会への批判を作品に込めるよう宮崎を説得。宮崎は即座にイメージボードを外し、一から構想を練り始めたという。
とはいえ、本作の脚本は前作の『もののけ姫』(1997年)と比べても決してうまくできているとは言い難い。例えば、湯婆婆の双子の姉である銭婆は、後半にとってつけたように登場するし、現代社会批判を展開したいのであれば海原鉄道のシーンも正直ノイズでしかない(本作で最も美しいシーンであることは間違いないが)。
そして、千尋を邪険に扱っていた油屋の従業員たちが、ラストで手の平を返したように千尋を称賛するのもよく考えればかなりおかしい。そう考えると本作の魅力は、脚本そのものではなく、魅力的なキャラクターや神秘的な舞台など、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような世界観そのものにあるのかもしれない。