データを重視する大谷が頼った直感
その後、話題はポスティングシステムによってメジャー挑戦に至るいきさつに移る。当時23歳だった大谷の契約はMLBの規定でマイナー契約からとされていたため、資金力に乏しい球団も、続々と獲得に名乗りを挙げる。
その中で大谷が入団を決めたのは“大穴”とされていたエンゼルス。ヤンキースやレッドソックスといった名門球団の誘いを断ったことは、現地の野球ファンを驚かせた。
この決断について、大谷は「フィーリング」と語っているのだ。この答えは驚くものだった。自身の成長曲線をチャートにしてまで管理する男だ。
物事を全て理詰めで考えているような印象を受けるが、野球人生の中で最も重要な場面で、自身の直感を頼ったのだ。この選択が正解だったのか、そうでなかったのかは、自身の成績が示しているだろう。
彼とて、最初からメジャーに適応できたわけではない。移籍後初のキャンプでは大苦戦し、オープン戦では投手としてメッタ打ちに遭い、バットも湿ったままで打率1割台と、散々の成績のままシーズンに突入する。
懐疑的な声が彼を包む中、開幕戦を迎える。ここで大谷は目を覚ます。結果、メジャー初年度にして打っては打率.285、22本塁打、投げては4勝2敗、防御率3.31の成績を残し、ア・リーグ新人王に輝く。
ここでダルビッシュが口を開く。それは、自身がメジャー移籍した頃、チーム内で人種差別があったことをうかがわせる内容だった。「日本ハムに戻りたい」と感じたことも一度や二度ではなかったという。
今はほとんどなくなったと語るが、少なくとも大谷を迎えたエンゼルスのロッカールームには、そういった差別はなかったであろうことは想像できる。さらに言えば、彼の活躍によって、他の日本人選手への言われなき差別は消え失せた。