観客を裏切り続けるサスペンスの物語構造〜脚本の魅力
さて、ヒッチコックはなぜ本作のネタバレを徹底的に封じたのか。それは、本作の脚本が「複数のミスリード」によって成り立っているからである。
まず、映画冒頭で、マリオンが会社の昼休みに出張中のサムと逢瀬を楽しむシーンを描き、彼女がサムと結婚したがっていることを振っておく。ここで、観客の関心は「彼女の遠距離恋愛は果たして成就するのか?」に向けられる。
昼休みを終え、会社に戻ってきた彼女は、客が払った4万ドルを銀行に預けるという名目で持ち逃げし、怪しむ警察の目をかいくぐりながらも、彼氏がいるカリフォルニアへと逃げる。ここで、観客の関心は「彼女は無事警察の手から逃げおおせて、彼氏と結婚できるのか?」に変わる。
しかし中盤、観客の思惑は大きく裏切られることになる。そう、主人公のマリオン自身が死んでしまうのである。ここで、観客の関心は「ノーマンが殺害する動機はなんなのか?」、そして「ノーマンの母はいつ姿を見せるのか?」に変わる。
そして終盤。冒頭からずっと観客の目をスクリーンに釘付けにしていた4万ドルが彼女と共に沼の底へと沈み、おまけに、ノーマンの母が死体であったことが判明。これらが単なる「マクガフィン」(話を進めるための動機づけ)に過ぎなかったことが明らかとなる。まるで、ヒッチコックの手のひらの上で転がされているかのようである。
しかし、話はここで終わらない。警察に捕まり精神鑑定を受けるノーマンは、独房で“母として”息子のノーマンを諭す。つまり、実体のないはずの「マクガフィン」が、“自らの意志で”話し始めるのである。
単なるサスペンスの技法であったはずの「マクガフィン」が、存在と非存在、生者と死者という普遍的なテーマへ昇華する。この展開は、娯楽性と作家性が同居した本作ならではの帰結といえるだろう。