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次女イシャナの初監督作『ザ・ウォッチャーズ』との呼応

©2024 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED
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 その声は、彼の右耳(=ブッチャー)に「あなたのすべてが怪物なわけではない Not all of you is a monster」と告げる。さて、ここで唐突に「怪物」という言葉が出現するのはなぜだろうか。もちろん、怪物とはまずはブッチャーの存在を意味する比喩表現だろう。だが、おそらくそれだけではない。

私にはこの台詞は、本作と同じく今年公開されたシャマランの次女イシャナの初監督作『ザ・ウォッチャーズ』の結末部に触発されたもののように思える。※1 以前拙稿でも引いた通り、同作の末尾で主人公のミナは、妖精と人間の混血であったマデリンに向かってこう語りかける。

「私には自分が怪物だと信じることが、自分の半分が邪悪だと感じることがどういう気持ちかわかる。それはあなたを自分でも認識していない何かに変える」。※2 『ザ・ウォッチャーズ』は、先行するポーやラブクラフト、さらにはストーカーといった巨匠たちのホラー小説群に対するフェミニズムを通過した応答として、「怪物と人間の混血」を肯定して見せた。

 そしてその試みは同時に、イシャナが父を単に模倣するのではなく、両親から「見られる」存在としての自身を父とは別の仕方で肯定し愛するための苦闘の過程でもあった。同作のプロデューサーを務めた父シャマランは、このイシャナが導いた暫定的回答に素直に感銘を受け、次作に娘への応答の要素を組みこんだと思われる。

 もちろん、この身振りは度が過ぎた親バカぶりを反映した愚かなものだと批判することは容易い。だが、父からの応答はより複雑な陰影を孕んでいるようにも感じられる。シャマランが、父に「見られる」存在としてなんとか自己を肯定した娘の言葉を、「家族を犠牲にする」父親を肯定する母の言葉へと書き換えたのだとすれば、「半分の怪物性」をめぐる父の解釈は、娘の達成を再び反転させてしまったもののようにも見えるからだ。

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※1 その証拠に?、長女サレカの猛プッシュや自身のあまりにも露骨なカメオ出演の影に隠れてはいるが、実は『トラップ』にも、よりヒッチコックのカメオ出演に近いさりげない形で、イシャナの名が現れる。序盤SWATの装甲車がライヴ会場に向かうシーンには、密かに『ザ・ウォッチャーズ』の看板が映り込んでいるのだ。

※2 『ザ・ウォッチャーズ』レビュー[中編]『映画チャンネル』Aug9,2024. 混血の含意については同レビューの後編も合わせて参照。
『ザ・ウォッチャーズ』レビュー【中編】

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