ナレーションとカメラワークの関係
現代と過去をシンクロさせる鍵は、女性が何気なく開いた「廊下の隠し扉」にあった。彼女はその向こうに続く地下倉庫に大鍋を取りに行っただけなのだが、その暗闇にわたしはアンネ・フランクが日記に書いていた「秘密の隠れ家」を重ねていた。港で命を絶ったユダヤ人一家もこの地下室で寝起きしていたのかもしれないと。
気がつくと目の前のスクリーンとは別に脳内にもうひとつのスクリーンが起動していた。耳(正確には字幕なのだけれど)で認識した言葉を映像に置き換えていくためのものだ。
スクリーンに映る現代のアムステルダムと脳内で像を結んでいく80年前の街の記憶。現代が舞台となっていることで過去の出来事が今と地続きであることの生々しさがより鮮明に感じられる。脳内のデュアルモニターによる、4時間半に渡る長い長い想像と思考の旅は、こうして始まった。
注目すべきは「ドキュメンタリーの一般的な撮り方は自分には合わない」と話すマックイーン監督が絶賛したレナート・ヒレッジの撮影によるルックだ。詩的で繊細。たまたまそこにいた通行人でさえも、人物の配置、光と影のコントラスト、色彩によって芸術写真のように切り取られている。
一般的なドキュメンタリーは「どう撮るかよりも何を撮るか」が優先されるのではないだろうか。目の前で起きている事実を伝える為に即興で記録していく。しかしながら、本作において「伝えるべき事実」はナレーションに託されている。
映像はナレーションで語られる事実があった現場で撮影されているものの、説明的ではない。たとえば冒頭の「民家に残る隠し扉」のように歴史的事実の証拠品だけにフォーカスを合わせるような撮り方はしていない。「街に残る虐殺の記憶」はあくまで画面全体の一部に捉えるに留め、その現場で今起きていることを捉えている。一方で、今起きていることを説明し過ぎると今度はナレーションで語られる過去との間に乖離が起きる。
運河が流れる水都のな街並み。子どもたちの声が響くにぎやかな公園。天窓から陽射しが降り注ぐ古い洋館で踊るリトルダンサーたち――等々、「伝えるべき事実」が起きた現場を抽象的かつ、ある種の批評性を含んだ芸術写真のように切り取ることで観客に想像する余白を残し、かつ過去と現在に重層的な意味を持たせるような仕掛けとなっている。その映像手法はドキュメンタリーとしてはとても斬新で、4時間半という長い上映時間でも観客を飽きさせないし、疲れさせもしない。