レトリックによって不在を創出するエンプティショットの映画
1点目は、『占領都市』がおびただしい量のナレーションによって支えられている点。アトランダムに思えたカットとカットの関係は、ナレーションによって異論の余地なく接着させられている。ナレーションは、いま写っている場所がナチスドイツによる占領期にはどういう場所であったか――たとえばここは戦前にはユダヤ系住民が集まるレストランだったが、ナチスによってユダヤ人入店禁止となった、など――を説明し、意味という意味を過剰に付加していく。そのナレーションはあえて事務的、自動筆記的だ。
まず「××通り×番地」と住所が告げられ、そのあとにこの場所に関連したナチスによるユダヤ人迫害とジェノサイドをめぐる情報付加が施される。シーンの締めくくりとして「Demolished」(破壊、取り壊し、解体、撤去、廃止という意味)という一語が句読点として添えられる。まず意味がどっさりと付加され、そのあとにそれの削除がある。
2点目は、『占領都市』が現代オランダの首都の表情を豊かに切り取りながらも、実情としてはすでに喪失し、不在となったユダヤ系住民の存在、生の営み、迫害の記録/記憶が、不透明な透かし紋様として刻まれている点である。この作品では、いま写っている場所や地区に存在したかつてのユダヤ人たちの姿を、たとえ写真によってさえも重ね合わせようとしない。
現代の平和なアムステルダム、民主的なアムステルダム、環境保全主義者たちや反ファシズム集会のデモ会場としてのアムステルダムを写しながらも、それはそこに写っていないものを透かし出すためのショットなのである。一方、フレデリック・ワイズマンはそのようなレトリックをまったく使用しないだろう。『占領都市』はレトリックによって不在を創出するエンプティショットの映画だと規定することができる。