映画『アノーラ』の曖昧で忘れがたいラストが示すものとは? 評価&考察レビュー。アカデミー賞受賞作品の秘められた魅力を解説
第77回カンヌ国際映画祭で最高賞となるパルムドールを受賞。さらには、第97回アカデミー賞で作品賞を含む五冠に輝いた映画『アノーラ』。今回は、登場人物のとある身振り、主人公の名前、参照先の映画に着目し、作品の魅力を深掘り解説する。(文・冨塚亮平)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価 レビュー】
※映画のクライマックスについて言及があります。未見の方はご留意ください。
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【著者プロフィール:冨塚亮平】
アメリカ文学/文化研究。神奈川大学外国語学部准教授。ユリイカ、キネマ旬報、図書新聞、新潮、精神看護、ジャーロ、フィルカル、三田評論、「ケリー・ライカートの映画たち漂流のアメリカ」プログラムなどに寄稿。近著に共編著『ドライブ・マイ・カー』論』(慶應大学出版会)、共著『アメリカ文学と大統領 文学史と文化史』(南雲堂)、『ダルデンヌ兄弟 社会をまなざす映画作家』(neoneo編集室)。
喧騒と静寂、動と静――イゴールとアニーの対照性
作品賞を含む五部門でアカデミー賞を受賞したショーン・ベイカーの監督最新作『アノーラ』は、前半と後半でその印象を一変させる。
舞台はニューヨーク、ブルックリン。主人公でストリップダンサーのアニー(マイキー・マディソン)は、ある日職場でロシア人の御曹司イヴァン(マーク・エイデルシュテイン)と出会い、すぐに見初められる。
単なる金目当てのビジネスだったはずの二人の関係は、バカ騒ぎを続けるうちにあれよあれよと言う間に思わぬ方向へと転がっていく。『プリティ・ウーマン』(1990)と『スプリング・ブレイカーズ』(2012)を掛け合わせたかのような二人の階級差を超えたシンデレラストーリーはしかし、息子が娼婦と結婚したことを聞きつけたイヴァンの両親たちが、彼を捕まえるために刺客を送りこんだことで一変する。
両親がやって来ると知ったイヴァンはすぐに家を逃げ出し、取り残されたアニーは、なぜか三人の刺客たちとともに車に乗りこみ、イヴァンを探すために町中を駆けずり回ることとなる…。
一転してコミカルな調子を増す映画の後半では、まずは至る所で激しく暴れ回りグルーヴ感に溢れた啖呵を切りまくるアニーの、東映ピンキー・バイオレンス映画を思わせる弾けぶりが痛快だ(じっさいベイカーは、マディソンに役作りの参考資料として梶芽衣子主演の『女囚701号さそり』(1972)を見せたという)。
そしてこの追跡劇では、画面から消え去ったイヴァンに代わり、意外な人物がアニーとの関係性を少しずつ深めていく。刺客の一人イゴール(ユーリー・ボリソフ)は、バット一本で表情ひとつ変えずに菓子店の内部を破壊できる人物でありながら、アニーに対しては決して必要以上に暴力を振るわない紳士的な側面をも併せ持つ。
そんなイゴールとアニーは、出会いの瞬間からほとんど正反対といっていいほどに対照的な存在だった。イヴァン宅に来襲した彼ら刺客たちと対峙したアニーは、暴言を吐き続けるかと思えば大声で叫び続け、最終的に男たちによって、口封じのためにスカーフを猿轡のように噛まされる。対してイゴールは、他の刺客二人と比べてもきわめて口数の少ない寡黙な男であり、必要のない限り口を開くことすらない。
喧騒と静寂、動と静。こうした二人の対照性をもっともはっきりと視覚的に表すのが、二人のある身振りである。アニーは、はじめてイゴールと向き合った際、彼に向かって家具を躊躇なく投げつける。イゴールはなんとか避けたものの、家具は彼の背後に飾られていた絵画に直撃する。