随所でみられる「投げる」身振りの重要性
映画の後半、職場での営業トークと表面的な笑顔からはかけ離れた獰猛さを露わにしたアニーは、「投げる女」と化す。たとえば彼女は、刺客たちとまず訪れたイヴァンの友人が勤める菓子店では、友人たちの携帯を強奪し夫に電話をかける。イヴァンが着信に応えないと知ると、アニーは立て続けに友人たちの携帯二台を勢いよく投げつける。
一方でイゴールは、アニーに対してつねに何かを「手渡し」続ける。最初の例として、イヴァン捜索が難航し、一行が夕暮れのやや冷えこんできた川沿いを歩くシーンを見てみよう。ここでイゴールは、先ほど猿轡に使用していたスカーフをおもむろにポケットから取り出し、そっとアニーに手渡そうとする。
「なんでそれ持ってんの」、というもっともなツッコミとともにアニーはいったんスカーフの受け取りを拒むが、ジャンプカットを挟むと辺りはさらに暗くなっている。16ミリフィルムで撮られた前作『レッド・ロケット』(2023)から続投し、今作では35ミリフィルムとアナモルフィック・レンズを用いた撮影ドリュー・ダニエルズによる、マジックアワーの夕日を捉えた長回しが見事な次のショットでは、寒さに耐えきれなかったアニーが観念し、イゴールに再び手渡されたスカーフを身につけることとなる。
やがて一行はようやくイヴァンを発見、このあたりから対照的だったはずの二人の性質にも少しずつ変化の兆しが見えはじめる。到着した両親は離婚を成立させるため自家用機に彼らを乗せ、結婚式をあげたラスベガスへと向かう。ここでイゴールは、立ち上がって無言のアニーを代弁するかのようにイヴァンを罵倒すると、すぐに酒を注いで彼女に無言で手渡す。
続く離婚手続きを進めるシークエンスでも、イゴールはイヴァンが謝罪すべきだと自分の意見を語る。翻ってアニーは手続き完了後にイヴァンの母に言葉の限り悪態をつきまくると、次いでそれは自分のものだとのたまうイヴァンの母に向けてイゴールから手渡されたスカーフを、さらには続けてイヴァンからの贈り物だった黒貂のコートを彼にぶん投げると、その場を立ち去る。
彼女を自宅まで送る任務を託されたイゴールは、機内で上着なしで眠る彼女に、手渡すかのようにそっと毛布をかける。こうして投げる女と手渡す男の珍道中は、アニーがなぜかイゴールと二人きりで過ごすこととなった、イヴァンの邸宅での最後の夜へと辿り着く。