映画『情熱の航路』へのオマージュから『アノーラ』を紐解く

ANORA アノーラ
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『情熱の航路』の主人公シャルロッテ(ベティ・デイヴィス)は、母による支配と過剰な干渉によって心を病んだ孤独な女性である。いつも眼鏡をかけた濃い眉の太った女性である彼女は、ある日とうとう周囲の助けを借りて実家を出る。療養所にしばらく滞在し、その後船旅へと出るなかで、卑屈な自分に別れを告げ、それまでは持てなかった自信を獲得してゆく。

 なかでも彼女の変貌に際して大きな役割を果たすのが、船旅で出会う既婚男性ジェリーだ。ジェリーは船内で再会した友人たちに、思い切ってドレスを着てきた彼女をカミーユという別の名で紹介する。

 耐えきれずその場を去った彼女は、彼女を追ってきたジェリーに「なぜカミーユと呼んだの?」と問い詰める。答えをはぐらかしつつ彼は、「そのドレスを着た君は椿の花(カミーユ)に似ている。もっと自信を持てばいいのに」と彼女を勇気づける。

 するとシャルロッテは、肌身離さず持ち歩いていた実家で撮影された家族写真を彼に見せ、自分の本当の姿を彼に明かす。濃い眉の太った女性こそが自分であり、可哀想なシャルロッテは病気で、今も完治していないのだと。真実を語った彼女は泣きはじめるが、ジェリーは引き続き彼女に寄り添う。そんな彼に感謝を告げた彼女は、翌日から文字通り別人のように快活な女性へと変わってゆく。

 彼女は、母親の呪縛によって抑圧されていた情熱をジェリーに呼び覚まされることで変わった。だが、既婚者で家族を捨てるつもりもないジェリーには、そんな彼女の情熱に応えることはできない。ジェリーが彼女に煙草を手渡すのは、二人が久々に再会するラストシーンだ。煙草を渡したジェリーは、彼女の決断を聞き「それで君は幸せになるのか、シャルロッテ?」とカミーユではなく彼女の本名で問いかける。

 アメリカの哲学者、スタンリー・カヴェルはこの呼びかけを次のように解釈する。「いうまでもなく彼にとって彼女はいまシャルロッテになった。それは、彼女が新しいアイデンティティをもつことを意味しないし、彼が事情の理解を新たにすることも意味しない。反対に私たちはこう考える。すなわち、彼が彼女をどう呼ぶべきかと問いかけてはならないし、彼はもはや彼女がもつ名前に対する責任をもたないと」(『涙の果て』211頁)。

 もちろん80年以上前の映画とは異なり本作のアノーラは、男の助けを借りることなくアニーとなり、ニューヨークをタフに生き抜いてきた。だが、煙草を手渡す直前のイゴールにとっての彼女もまた、そのときはじめて厳しい環境で虚勢をはり続けてきた強い女アニーではなく、一人の同胞としての「アノーラになった」のではないか。

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