スタンリー・カヴェルの著作を手引きに考えるボブ・ディラン像
なぜディランがこう変わったのか、この道を選んだのかを考えるころには、彼は次の一手を打っている。変化の背景やディランの内面を一切示さないことでマンゴールドは、ただ「別のもの」へと高速で変貌し、自己を再創造し続ける「スター」としてシャラメ演じるディランを造形したのだ。
興味深いことに、アメリカの哲学者スタンリー・カヴェルは、ここまで本作のディラン=シャラメについて確認してきた特徴の多くを、『情熱の航路』(1942)のシャルロッテ=デイヴィスに見出している。
まずカヴェルは、同作を含む「知られざる女性のハリウッド・メロドラマ The Hollywood Melodrama of the Unknown Woman」というジャンルの映画における中核的なアイロニーとして、「彼女は彼女である者であり、彼女であるものではない」を挙げている。
「自己にかんして真であるような単独の記述はどれも偽である、ひとつの語あるいは名称でいえば、アイロニーである。だから知られざる女性[のメロドラマ]というジャンルがもつ主題は人間の自己同一性そのものがもつアイロニーにあると言えるかもしれない。」(『涙の果て』216頁)。
母親や親戚に顕著な、彼女を「太った女性」という単独の記述で定義してしまうことのアイロニーは、「名もなき者 Complete Unknown」であるディランを「フォークの旗手」の枠にはめこもうとする親代わりに近い存在のシーガーらにも同様に認められるものだ。
一方カヴェルは、はじめて会った際に彼女が太っていることを無視しているように見えた医師ジャクイスの「違いの尊重 respect for difference」に対する能力や意志を、シャルロッテが「無骨ではない」という言葉で表現したことに注目する。その上で、無骨さの対極に位置する「違いの尊重は応答性、すなわち予期しないもの(たぶん範疇化されないもの)へ応答する特性、たとえば即興的なヴィジョンを要求する」とする(217)。
彼女のそうした即興的ヴィジョンが最も端的に現れているのが、劇中でも引用されたラストシーンだろう。シャルロッテが最後に放つ言葉、「月は要らない。私たちには星がある」についてもカヴェルは重要な指摘を行なっている。
「月は要らない[Don’t ask for the moon]」には固定した慣用的意味がある[不可能なことを望むな]。「星がある[We have the stars]」にはそうした意味がない。彼女の言葉は即興によるものだ。…「星があるじゃない」という表現は——慣用的な意味の保証がないのだから——星が(字義通りに)何であるかの寓意的解釈であると考えてみよう。星は私たちにとって手本であり指針である。まず初めに、私たちはベティ・デイヴィスという星(スター)をもつ。それゆえ私たちは、切望すべき自主独立の描像、個性、——必要ならば、解読されていない「変わったところ」と化すような個性——の描像をもつ(219-220)。