「月は要らない。私たちには星がある」シルヴィーの言葉の真意
そもそも本作のディランは、たまたま目にしたポスターをきっかけに予定せず入った映画館で、彼と同じように即興で言葉を紡ぐシャルロッテ、デイヴィスを目にしたのだった。
一見「月をもつこと」(ジェリーと結ばれること)より劣るようにも思える「星をもつこと」(彼の娘を育てること)を、ただ「別のもの」への変貌として捉え直すようなシャルロッテの文彩は、64年と65年のニューポートフェスティバルでディランが奏でた全く別の楽曲群の「違い」ともどこかで重なるだろう。
ファンたちの期待を裏切った65年の楽曲は、夜店で目に入ったから買ったおもちゃの笛を楽曲に使用し、エレベーターやスタジオで偶然遭遇した人物たちをバンドに迎え入れる、きわめて即興的なフットワークの軽さから生まれたものでもあった。あたかもディランはこう告げているかのようだ。「フォークは要らない。私たちにはロックがある」。
それはそうと、劇中でのシャルロッテの即興による言葉を、彼女を演じるデイヴィスのスター性と字義通りに結びつけてしまうカヴェルの解釈は奇妙かつ魅力的なものだ。最後に、この解釈と不思議な形で響きあう映画の細部についても一言だけ述べておこう。
『名もなき者』(2024)では、劇中劇として映し出されたシャルロッテによるこの言葉が、後半に再び反復される。久々にディランと再会し65年のフェスティバルに同行したシルヴィは、ステージ脇からジョーン・バエズと彼のデュエットを見せつけられるという地獄(ジョーン・バエズを挟んで二人が向き合う、三人を同一フレームに収めた切り返しの残酷さが見事)に耐えきれず、帰宅を決意する。
彼女を追ってきたディランと波止場でフェンス越しに最後に向き合ったシルヴィは、ディランからタバコを受け取ると、シャルロッテの決め台詞「月は要らない。私たちには星がある」を放ってその場を去っていく。ここでのシルヴィは、一見すると単に映画の名言をそのまま繰り返しているように見える。
だが、実際にはこのシーンのシルヴィは、同じ言葉に全く別の意味をもこめていたのではないか。『情熱の航路』(1942)におけるジェリーの娘のように、これ以降彼女がディランと共有できるものとはなんなのか。そう考えると、ここでシルヴィーが放つ「星」という言葉はある両義性を帯びてくる。
あたかもカヴェルの解釈とも重なりあうような形で、まずシルヴィーは決め台詞に彼女やフェスの観客たちはみな「スター」としてのディランをもつことができるという含意を含ませているように見える。しかしでは、作品世界の外側から主人公を演じるスター女優を見つめるカヴェルの視点と、同じ作品世界の内側で主人公ディランを見つめるシルヴィーの視線がなぜ重なるのか。
舞台の上で歌うスターとしてしかディランを見られないことは、シルヴィーの立場から見た場合には、生身の人間としてのディラン=ジマーマンをもつことはできないという諦念をも意味する。シルヴィーは、初めてのデートで見た思い出の映画のセリフを一言一句変えずに、より二人の断絶を強調する形で改めて再利用したのだ。
愛した男の娘を通じて男との関係を異なる形で持続させることができたシャルロッテ=デイヴィスとは異なり、これ以降シルヴィーは、一方的にスターであるディランを見つめることしかできなく(しなく)なるだろう。
こうして、もう一つの見事な即興から生まれた言葉で完全にディランとすれ違うこととなった彼女は、「より良い」自分を発見するために、シャルロッテのように船へと乗りこんでいくこととなる。
この映画はもちろんノーベル文学賞を受賞した著名なアーティストの伝記映画である。しかし同時に、ディランとシルヴィーがそれぞれに異なるデイヴィス像を抱いたまま別れへと至る、「名もなき者のメロドラマ」でもあったのかもしれない。
(文・冨塚亮平)
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