洪水はわが魂に及び。映画『けものがいる』評価&考察レビュー。“古くて新しい”ベルトラン・ボネロの映画世界を徹底解説

text by 荻野洋一

第80回ヴェネチア国際映画祭の公式批評スコアで一位を獲得し絶賛された話題作、『けものがいる』が公開中だ。監督を務めたのは『SAINT LAURENT サンローラン』(2014)のベルトラン・ボネロ。1910年、2014年、2044年と、3つの時代にまたがって繰り広げられる異色のメロドラマの魅力を紐解く。(文・荻野洋一)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価 レビュー】

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【著者プロフィール:荻野洋一】

映画評論家/番組等の構成演出。早稲田大学政経学部卒。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で評論デビュー。「キネマ旬報」「リアルサウンド」「現代ビジネス」「NOBODY」「boid マガジン」「映画芸術」「ele-king books」などの媒体で映画評を寄稿する。2024年、初の単著『ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ』(リトルモア刊)を上梓。

古典性と新奇性が共存するベルトラン・ボネロの映画世界

映画『けものがいる』
©Carole Bethuel

 ベルトラン・ボネロの映画は古くて新しい。ややこしい言い方だけれども、ボネロ作品の特徴は古さの中に新奇性があり、新しさの中に古典性があることである。その矛盾ならぬ矛盾を、気味の悪い胚胎のありようを、どのように辿っていけばいいだろうか? 汚穢にまみれていながらも透明すぎるくらいに透明なボネロの新作『けものがいる』の妖気的な魅惑について、断章形式で綴っていければと思う。

グリーンバック

 オープニングショット――何もないグリーンバックの空間。カメラがわずかに左へパンしていくと、立ち姿のレア・セドゥがフレームインしてくる。ヴォイスオフで彼女に指示を出す声の主はグザヴィエ・ドランだ。2022年に映画監督を引退したはずだが、ホラー映画の製作準備中との報道もある。何もない空間に立つレア・セドゥに、ドランがあれこれと指示を出す。「君の右側に台所の窓がある」とか「2、3歩こちらの方へ」とか。グリーンバックは仮想の空間である。いま、ここには道具も家具もないけれども、事後にあれこれとコンピュータで付け足すことができる。だからこそ、ここに何があるか、ここがどこなのか、いまがいつなのかという事実よりも、彼女がいまここにいる、ということだけが、映画の唯一の成立条件である。つまり、あとのことはすべて置換可能なかりそめにすぎないのである。

ベルエポック

 レア・セドゥ演じる主人公ガブリエル・モニエは3つの時代を生きる。1910/2014/2044。彼女を取り巻く時代、社会、都市、隣人たちはいずれもグリーンバック処理された素材にすぎないのかもしれない。1910年、ガブリエルはベルエポック時代のドレスを着て、舞踏会の会場内を練り歩く。彼女は高名なピアニストで、シェーンベルクの演奏に挑んでいるが、「難しい。革新的だけど、感情がつかめない」。この年の1月、パリは大洪水に見舞われる。大災害。人類の破局への序章。創世記によれば、人類は大洪水の引けたあとに文明を築いたとされる。ボネロは、次回の大洪水が創世記の「返し」であり、次こそ終焉の大洪水だと示唆しているのではないか。『けものがいる』は『國民の創生』(1915)の110年後の続編たろうとしているふしがある。創生が終焉によって閉じられる…。

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