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独創的な演出にインスピレーションを与えた村上春樹の言葉

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―――子供パートでは緑色と青色を多用されたとのことですが、子供たちが身に付けている赤いネッカチーフが差し色になっていると思いました。これは日本にはない文化なのですが、中国の学校では一般的なスタイルなのでしょうか?

「中国には“中国少年先鋒隊(以下、少先隊)”という、中国共産党の児童組織があるのですが、この赤いネッカチーフはそのユニフォームなのです。少先隊は、主に7歳〜14歳未満の児童によって構成されており、14歳を過ぎると共産党の青年団に移ります。そして、成人に達すると青年団を卒業して共産党民になるわけです。

現在では、それを身につける子供はかつてに比べて少なくなりましたが、本作に登場する子供たちは、90年代の夢の時代を生きており、当時は、その多くが赤いネッカチーフを身につけていました」

―――赤いネッカチーフは、子供たちが少先隊に所属しているということを示すと同時に、ある時代的な象徴でもあるわけですね。

「少先隊に所属するということは、共産党の子供であるということです。本来は仲良く手を取り合って共に何かを成し遂げるための団体であり、コミュニティーであるはずなのに、所属する子供たちの間には、猜疑心や嫉妬心がある。

一心同体であることを目指す組織ではあるものの、内側にいる子供たちそれぞれには固有の心の機微があり、関係性のもつれがある。それを表すために、服装に統一したモチーフを入れるのは効果的だったと思います」

―――帰宅中の子供たちが別れ際にハグをしますね。他にも、女の子が男の子の髪を切るシーンなど、子供パートでは接触描写が多く見受けられたのですが、これは意図して演出されたのでしょうか?

「それに関しては、キャラクターの性格に依るところが大きいです。中国語に“分離焦燥”という言葉があるのですが、本作に登場する子供たちは、分離することに焦燥を抱え、別れ際になると不安になり、その日の別れをあたかも今生の別れかのように惜しみ、抱擁し合います。

また、散髪シーンでは、『僕の髪は君の髪であり、君の髪は僕の髪である』といった、幼年時代特有の自己と他者の境界線の曖昧さを描きたかったのです」

―――本作では様々な小道具が登場し、象徴的な役割を与えられています。中でも双眼鏡は距離を介して人を見るツールであり、先ほど仰った、接触描写と対になるアイテムなのではないでしょうか。また、双眼鏡は子供たちが消失する過程でも大きな役割を果たしています。

「本作における双眼鏡には2つの意義があります。一つは、人と人との間に距離を作り出すということ。先ほど申し上げたように、子供たちは、身体的な接触を自然にできていた間柄なのに、双眼鏡を拾ってしまったがゆえに互いを機械の目でしか見ることができなくなり、距離を持って相手と接することになる。また、それを拾ってしまったがゆえに友情には亀裂が生じてしまう。

しかし、本作において、双眼鏡は距離を作るものであると同時に、レンズを通して過去や未来を見ることを可能にします。それは、過去と未来をつなぐトンネルや抜け道であり、ワームホールのようなものでもあるのです」

―――双眼鏡は人と人を引き離すと同時に、異なるものを繋ぎもする両義的な装置なのですね。今回が初の長編映画となりましたが、短編を制作するのとでは、意識の上でどのような点が異なりましたか?

「中国には、物事を行うときに精神を奮い立たせ一気に成し遂げるという意味を持つ四文字熟語があるのですが、気力に任せて一気に撮りあげるということは、ショートフィルムにおいては可能ですが、長編映画には適さないものだと思うんですね。

長編映画を構築するためには、世界の見方・見え方を提示する必要がある。それは、僕たちがどういう目で世界を見ているのかということです。それが定まっていないと、何を撮りたいのか、自分自身でも見失ってしまったことでしょう」

―――長編映画を作るためには世界を見つめる確固とした視線が必要なのですね。先ほど仰った「機械の目」と「鳥の目」が、チウ・ション監督が本作で提示した「世界の見方」であるという理解でよろしいでしょうか?

「仰る通りです」

―――細部についても伺いたいと思います。終盤でハオが同僚から誕生日を祝ってもらうシーンがあります。ロウソクの光が近づくにつれ、影が彼を覆うように伸びていきます。ハオの意識が他なるものに侵食されていくようで、とてもゾッとしたのですが、これは意識して演出されたのでしょうか?

「最初から意図したのではなく、撮影のセッティングを終えて、ケーキの上のロウソクに火をつけてテストをしたところ、影の効果があるということがわかり、活かすことにしました。

影によって何が表現されるかというと、ハオが周りの同僚に祝福されればされるほどプレッシャーを感じてしまう、内面的な葛藤です。ケーキが自分に近づけば近づくほど恐怖が増し、影が伸びていく。そのようなパラドックスな状況を光と陰で表現しているショットだと思います」

―――このシーンでは、影に覆われそうになるハオのショットに、河原で佇む少女のバストショットが繋がります。異なる時空に存在する両者が切り返しで結ばれる、とても独創的な演出です。

「仰った切り返しショットは、編集の時に発見したものです。この映画は編集に多くの時間を費やした作品なのですが、長い時間をかけて作業をしていると、見下ろすようなハオの目線と見上げる少女の目線が重なり、混ざり合う効果があることに気付きました。

さらに言えば、このショットのインスピレーションの元は、タイトルは忘れてしまいましたが、中国語に翻訳された村上春樹氏の小説の一節にあります。『記憶を照らす光はろうそくの光のようだ』。それを踏まえると、ハオに近づくロウソクの光は、実は記憶を照らす光でもあるのです」

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