スコセッシ作品からの影響とご都合主義が際立つ脚本
妄想に取り憑かれた男を主人公に据え、鏡や拳銃が重要なモチーフとして登場する点で『タクシードライバー』(1976)を想起させ、主人公が売れないコメディアンであるという点や、憧れの大物芸人に粘着し、尊敬から憎しみへと感情を転化させる展開は『キング・オブ・コメディ』(1982)と瓜二つである。脚本を執筆したトッド・フィリップスとスコット・シルヴァーは、上記のマーティン・スコセッシ作品から受けた影響を公言しており、その点で本作の設定にはオリジナリティが見出せない。
他方で、ワイドショーに出演したアーサーが、かつての憧れの存在であるマレー(ロバート・デ・ニーロ)の前で自身の悪事を暴露するクライマックスは魅力的であり、「僕にはもう失うものはない。傷つける者もいない。僕の人生はまさに喜劇だ」と語るアーサーのセリフには力が宿っている。とはいえ、怒りに駆られたアーサーが懐から拳銃を取り出し、生放送中にマレーを撃ち殺す展開はリアリティを欠いており、観る者は「テレビ局の入館チェックをどうやって切り抜けたのか?」といった些細な疑問に引っかかりを覚える。
また、アーサーの病は過去に父親から受けた虐待が影響しており、殺人を犯すきっかけになってはいるものの、彼が悪に傾斜していく心の動きとはさほど関係していないのも気になるところ。虐待を受けた結果、心の病を患うことになり、病のせいで不幸に見舞われ、暴力に救いを求めた。と要約できてしまうアーサーの心の変化はいたって単純に描かれており、「ドラマを盛り上げるために病気を一面的に描いている」と批判されてもおかしくない側面も持ち合わせている。